自分がやりたいことを人目を気にして我慢している人は、我慢しない人に対して怒りを感じます。衝動的に攻撃的になってしまうのですが、攻撃された人にとっては「あなたもやればいいじゃないですか」という感覚なので、まったく噛み合いません。人に笑われることがつらい人と、平気な人はわかり合えないといわれますが、実際そうだと思います。
SNS時代になり、いわゆるキラキラしている派手な人たちをスマホで観ることが普通になりました。地味な自分の人生と比べて落ち込むことになります。もちろん、アップされているのは盛りに盛った演出された内容なのですが、意外と真に受ける人も多いようです。このとき、理解しようとか、自分もそうなろうとするのではなく、批判するという選択をしてしまうことがあります。
それは現実世界でのイベントでも同様で、楽しそうにしている人たちを見て、地味な自分の人生と比べて惨めな気持ちになってしまったとき、自分も楽しむのではなく、楽しそうにしている人たちを楽しくない気持ちにさせてしまおうと批判をしてしまう行動をとります。
どちらの場合も、孤立化してしまう結果となります。
ここで、人目を気にする人は、自分に対して最もダメージのある言葉である「恥ずかしくないのか?」という攻撃を選択しがちです。この言葉は、人の目が気になり過ぎている人にしかダメージを与えません。むしろ、攻撃をした本人にハネ返ることになります。
自分が間違っていないことを証明しようとして、一緒に批判してくれる人を探しますが、そもそも一緒に批判しようなんて人たちが楽しい人物なはずもなく、気がつけば自分とよく似た「一緒にいても楽しくない人目を気にする人たち」しかいないことになります。
他人がどう思うかをコントロールすることはできません。人の目が過度に気になると、自由でのびのびとした活動ができなくなります。「バカにされるんじゃないか」などと考えてしまうからです。
なぜ、人にどう見られるのか、人にどう評価されるのかを過度に気にしてしまうのかというと、楽しい人間関係の基礎となる「愛着(アタッチメント)」の形成がうまくいかなかったのではないかと考えられます。
自分が幼かった時代の家庭に、安心感と適度に肯定的な評価があれば、人の目をあまり気にしすぎることはなく、自信を自然に身につけながら健やかに育つことができます。特に、失敗したときに「可愛いね」という反応をもらって育った場合は、本当の意味での自信が身についていきます。
一方、劣等コンプレックスが強い支配的な保護者や学校の先生から、必要もなく高いハードルを設定され、無理な要求をされて育ったり、逆に過剰に高い評価をされて育ってしまうと不安感が強くなり、人の目を過度に気にするようになってしまうそうです。
人からの評価に対する不安が高い人は、人からの評価に対する不安が低い人の言動を批判的に攻撃すればするほど、自分が自由に行動する機会を失うことになります。
とはいえ、50歳を過ぎて、人の目が過度に気になっている場合、人目を過度に意識せずに楽しく生きていこうというのは、結構ハードルが高いかもしれません。人は、これまでの自分の人生を、間違っていたと考えたくない生き物だからです。ただ、今後の数十年の余生を考えてみた場合、可及的速やかに悔いの残らないように、人目を過度に気にせずにやりたいことをやった方が、この世に対する恨みつらみが残らないのではないかと思います。
そもそも論、健全な人は、そんなに他人には関心がありません。それは、自分に対してもあまり関心を抱かないで欲しい人であるということです。
他人に関心がありすぎて興味津々な人は、実際には自分に興味を持って欲しくてたまらない人です。なので、自分に対して興味関心を持ってくれない人たちに対して怒り狂ったり、リセットしようとしたりすることになります。
リセットするのは、自分の過去の人生の悲しみにした方がよくて、自分に対して興味関心を持ってくれない人たちをリセットしてしまったら、余計に人生の悲しみが増えていくことになります。
「探してた 答えはここにあると
そっと教えてくれた
悲しみをリセットして」