エンターテイメントとは、「他者を楽しませる娯楽」 です。多くのファンを集めることができるエンターテイナーは「売れている」と言われます。売れていないエンターテイナーは、その意味を理解せずに活動しています。
売れているエンターテイナーは、生きづらさを忘れさせてくれ、楽しませてくれます。場合によっては、悲しい気持ちを和ませて癒してくれます。本来の娯楽は利他的な行為なので、返報性の原理がはたらいてファンが増えていくという流れが生まれます。自分らしい、唯一無二の存在として生きていくことができます。唯一無二の存在なので、他の誰かに真似されることもありません。「何をやるかではなく、誰がやるか」なのです。
一方で、売れていないエンターテイナーは利己的です。動機は「有名になりたい」であり、「輝いている自分を見て欲しい」というエゴであり、自分のことを過大評価した利己的な行為であることがよくわかります。そんな押し売りエンターテイナーの利己的メッセージが観客に届くはずもなく、売れることはありません。人が集まっている場所に押しかけていって、迷惑がられるのが関の山となります。奇抜なことをやって一発逆転を狙いますが、そんなに甘くはないので、徐々にジリ貧となります。
コロナ禍以降、エンターテイメントのサブスク化が進んだり、物価高で課金してくれる人が減ったり、世代交代で高齢化によってファンが減少したりと、売れないエンターテイナーにとっては集客が難しい状況になってきています。利己的なエンターテーナーにとっては、生きづらい環境だと思います。エンターテイナー本人が生きづらいので、パフォーマンスも重くて暗いものになってしまいます。闇≒病み的な。
昨日の記事で書きましたが、パフォーマンスをしてみせたときに、10人のうち2人は無条件にパフォーマンスを受け入れてくれる人たち、7人は受け入れてくれたり受け入れてくれなかったりする人たち、残りの1人は何をしても受け入れてくれないしない人です。受け入れてくれない1割の困難な人たちのために無駄なエネルギーを注ぎ込むことは損失になります。受け入れてくれたり受け入れてくれなかったりする7割の人たちに受け入れてもらわなけばと考えがちですが、大切にすべきは2割の「無条件に受け入れてくれる人たち」です。
この意味で、「有名になりたい」という輝いている自分を見て欲しいという劣等コンプレックスまみれのエゴイスティックなパフォーマンスは無用なのです。すでに喜んでくれている人たちに向けて楽しさを与えることができていれば、それで経済は成り立ちます。不特定多数にアピールするために活動実績を書き連ねて、本来つながるべきでない人たちとつながろうとしてしまうと、本来つながるべき人たちが離れていってしまうのが現実です。
見た目の活動の派手さと、活動が経済として成り立っているかどうかというのは別の問題で、地味にやっている人たちの方が実は成り立っていたりしていて、面白いなと思います。昨年から、エンターテイメント界の縮小が著しくなってきており、誰が生き残っていくのか見守っています。