見栄
(他人によく見られるように)うわべを飾ること。他人の目を気にして不相応な体裁をつくろうこと。
見栄を張る
ことさらに外観を飾る。うわべをとりつくろう。うわべを飾る。外観を繕う。
「見栄を張っても、本物にはなれませんよ」的なことを、たまに口にします。見栄を張っている時点で、自分で自分が偽物であると実感することになるからです。見栄を張ることで、なりたい自分やあるべき姿に近づくことができると信じているわけですが、現実はそんなに甘くはありません。
そもそも、なぜ見栄なんて張ってしまうのかというと、「他人から一目置かれたい」という潜在的な願望があるからだと思います。
少し観察すればすぐにわかりますが、見栄を張る人は自分に自信を持てていません。だから、自分の外観やうわべを飾ることで、なんとか自信を得ようとしているのです。自分の評価がマイナスにならないように足掻く行為であることが理解できます。他者からの評価がマイナスになることは、自分は価値のない人間だと認めることになるので、見栄を張るわけです。
見栄を張っている姿は、コンプレックスの裏返しに映ります。自分に自信がなく劣等感を抱えているのが透けて見えます。マウンティングをする人は、相手を見下すことで優越感に浸ろうとします。自己肯定感の低さと異常なまでの「褒められたい」という気持ち(強い承認欲求)が透けて見えます。
あたたかいコミュニティ(家族や仲間たち)に恵まれて生きてきた人たちは、わざわざ褒められたり認められたりしなくても、もう十分に満足しているので、「褒められたい」という理由で見栄を張る人のことが理解できません。
劣等感を抱えているがゆえに、「みんなの注目を集めていたい」という欲求から奇行に走るわけですが、周囲の人たちは関心をもちません。むしろ、「なるべく関わらないでおこう」と、敬遠されることになります。
当たり前のことですが、偽りの自分を演出して褒めてもらおうとするよりも、ありのままの姿でいるほうが好かれます。同じく、ありのままに生きている人たちとの友好な関係を築くことができます。
ありのまま(有儘)
実際にあるとおり。事実のとおり。ありてい。あるがまま。ありのまにまに。
この記事がわかりやすいです → 森田療法における「あるがまま」とは
目の前で起こっていることに対して、良いことか悪いことかを判断せず、「いま、こういうことが起こっている」と受け入れること。ものごとを「あるがまま」に受け入れること。「こうでないといけない」という固定観念を持たないこと。自分のことを、無理やり良く見せようとしないこと。
無理に良く見せようとしなくても、自然体で楽に生きている人は、意外と素敵に見えるものです。自分の気持ちに正直に、素直でいる方が、実はずっと楽しい人生になると思います。