2020年1月14日火曜日

優越することで心の葛藤を解決しようとすると、どうしても普通の人よりも生きる障害が多くなる。優越しようとすることは人との心のふれあいをさらに難しくする。

劣等感がなくなる方法 加藤諦三 大和書房
劣等感がなくなる方法 加藤諦三 大和書房より

人は劣等感を乗り越えるための努力で劣等感を深刻化する。人は劣等感を乗り越える心の姿勢で根本的な間違いを犯す。劣等感を解消しよう、解消しようとして逆に劣等感を深刻化していく。劣等感は劣等感の上に積み重なる。そして劣等感が心の中に山積みになる。屈辱感を乗り越えようとして「オレは凄いんだ」と言っている人が居る。その場を何とか心理的に治める。しかしそれはなんの解決にもなっていない。それはカレン・ホルナイの言う神経症的解決である。真の解決ではない。

過去の屈辱感が「優越したい」と言う願望を生む。人は優越することで、心の葛藤を解決しようとしている。優越することで心の葛藤を解決しようとすると、どうしても普通の人よりも生きる障害が多くなる。たとえば自分が優越することの障害になる人が出てくる機会は普通の人より多い。そしてその人を許せない。自分の神経症的要求を妨害する人が許せない。

努力の方向が優越することから、人とふれ合う方向に舵を切れるかどうかが、その人の幸せと不幸の分かれ道である。人と心がふれあうことで劣等感は解消できるのに、劣等感を解消しようとして逆に相手に優越しようとする。だからこそ劣等感のある人は、努力するにもかかわらず劣等感がどんどん深刻になる。

劣等感は依存症である。アルコール依存症の人は、アルコールを飲めばその時には一瞬楽になる。しかし問題は解決していないどころか、深刻化している。深刻な劣等感のある人は競争に勝てばその時にはほっとする。その時だけは楽である。しかし心の葛藤は深刻化している。競争に勝っても負けても劣等感は深刻になっている。アルコール依存症の人がアルコールを飲まないではいられないように、劣等感の深刻な人は優越しようとしないではいられない。

しかし優越しようとすることは人との心のふれあいをさらに難しくする。優越できなければ、不安になり自分の独自性の強調になる。人と違ったことをして他人に自分を印象づけようとする。不安になれば不安になるほどほど、競争心が強くなり、優越できなければ変わったことをして人に自分を印象づけようとする。自分は「変わっている」ということで世の中の普通の基準で評価されることから逃げる。

ただの我が儘を「私、平凡な生き方って好きじゃないんですよね」と芸術家や革命家を気取ったりする。深刻な劣等感のある人は身勝手な自分のことを個性的と解釈しようとする。深刻な劣等感から「変わっている」ことをして、それを個性と言い張る。優越することが「緊急の必要性」なのに優越できない。そこで「個性的な自分」と言う自己像に固執する。現実の世界から想像の世界に逃避する。

そうして神経症的競争意識がますます酷くなり、ますます人と心のふれあいを失う。人は他人に自分を強く印象づけようとして不安になれば不安になるほどほど、競争心は強くなる。アルコール依存症の人がアルコールを飲み続けていよいよアルコール依存症が深刻になるのと同じである。

優越できても、優越できなくて独自性を強調しても、いよいよ劣等感は深刻になる。独自性を強調できなくて「どうせ」とすねる人も出てくる。これらの心理の解説がこの本の目的である。

アルコール依存症の人は、自分がアルコール依存症であることを否定するが、心の底ではアルコール依存症であることを知っている。しかし深刻な劣等感のある人は、心の底でも自分が依存症であることに気がついていない。

引用ここまで




「教祖になりたい人」と「教祖を妄信したい人」に共通するのは、『深刻な劣等感』だと思います。他者に優越する手段として教祖になることを選ぶ人と他者に優越する手段として教祖についていく人たちが不幸にして出会ってしまうと、劣等感の深刻化が一気に加速します。独自性を強調するために様々な奇矯(行動・思想傾向が普通の人とは変わっていて激しいこと)な振舞をするようになり、「私はすごい人間なんだ。認めろ」というメッセージを発するようになります。「私は正しい。お前は間違っている」というメッセージを発している人は、さらにまずい状態に陥っています。

現実世界の人たちは、こちらの期待通りに反応してはくれません。なので、「世の中の人間は間違っている。俺は正しいのに」と、世を恨むようになります。単独ならばまだいいのですが、不幸にして同じように考えている人たちと出会うと、その考えを強化してしまうことになります。私たちは「自分と似ている人」と仲良くなってしまいやすいのです。

現代において恐ろしいのは、エコーチェンバー現象です。長くなりますが、引用いたします。

閉鎖的空間内でのコミュニケーションを繰り返すことよって、特定の信念が増幅または強化される状況の比喩である。エコーチェンバー化(エコーチェンバーか)、またはエコーチェンバー効果(エコーチェンバーこうか、echo-chamber effect)とも言う。

世の中には様々な人がおり、様々な意見を持った人と触れ合うことが出来る。世界に開かれたグローバルでオープンな場で、「公開討論」のような形で意見を交換し合うことができるコミュニティがある。一方で、同じ意見を持った人達だけがそこに居ることを許される閉鎖的なコミュニティもあり、そのような場所で彼らと違う声を発すると、その声はかき消され、彼らと同じ声を発すると、増幅・強化されて返ってきて、「自分の声」がどこまでも響き続ける。それが「エコーチェンバー」である。

「エコーチェンバー効果」とは、エコーチェンバーのような閉じたコミュニティの内部で、誰と話しても自分と同じ意見しか返って来ないような人々の間でコミュニケーションが行われ、同じ意見がどこまでも反復されることで、特定の情報・アイデア・信念などが増幅・強化される状況のメタファー(隠喩)となっている。

この「エコーチェンバー」の内部では、「エコーチェンバー」内の「公式見解」には疑問が一切投げかけられず、増幅・強化されて反響し続ける一方で、それと異なったり対立したりする見解は検閲・禁止されるか、そこまでならないとしても目立たない形でしか提示されず、すぐにかき消されてしまう。そうするうち、たとえエコーチェンバーの外から見た場合にどんなにおかしいことでも、それが正しいことだとみんなが信じてしまう。

インターネット時代になると、このエコーチェンバーがますます身近になって人々の前に現れた。オンライン上で生じるエコーチェンバー効果は、同じような考えを持った人々の集団の一人一人が、個々人のトンネル・ビジョン(まるでトンネル内での視界のように、狭い視野で特定の考えしか持てなくなっている状態)を融合、発展させることで生じる。インターネット上には、自分との考えとよく似た、あるいは自分が賛同できるような特定の見解をすぐに探し出して、スマホで1回タッチするだけで「いいね!」したり「リツイート」したりできるシステムがあるので、インターネット上で情報を検索する人は、そういう書き込みをした、自分と同じような興味・考え方の人との間で情報をやり取りすることになりやすい[12]。そういう人たちが寄り集まることで最終的に形成されるオンライン・コミュニティが「インターネットにおけるエコーチェンバー」である。

インターネット上のエコーチェンバーの中に知らないうちに入り込んでしまった人々は、自分の意見に対する「インターネットの向こうの様々な人々」からの反響として、常に自分と同じような考えの意見が返ってくることに気づき、これによって自分の信念をより強固なものとする。特定の事柄に関して様々な意見を持つ人々と出会えるはずのインターネットにおいて、このようなことが起こるのは、インターネット上にはそれぞれ意見が違う一人一人の個人的見解に「合致する」ように作られた、出所不明の「フェイク・ニュース」を含めた幅広く様々な情報が、スマホなどですぐ閲覧できる形で存在しており、現代の人々はそういった従来型のマスメディアとは違う情報源からのニュースに、ネットを通じてますます接するようになっているためである。

Facebook、Google、Twitter といった会社は、ひとりひとりが受け取るオンライン・ニュースに、各個人に最適化された特定の情報を機械的に盛り込むアルゴリズムを立てている(これが「フィルターバブル」を生じさせる「フィルター」である)。このような個々人に提供するコンテンツを「ニュース提供元のサーバーで動いているアルゴリズムが、個々人がインターネット上に残したプライベートなログを参照しながら、閲覧者の興味を推測、それに合わせてニュースを選別(キュレーション)し、スマホなどの個人用情報端末を通じて提供する」という機械的な手法は、マスメディアにおいて「生身の人間の編集者が、個々人ではなく『マス(大衆)』向けに情報を提供する」という伝統的なニュース編集の機能に代わるものとなってきている。インターネットの登場で、個々人の誰もが情報が発信できる「情報の民主化」が起き、これによって人類が地球規模で繋がるようになるという希望がかつてはあったが、結局はFacebookなどのソーシャルニュースフィードやアルゴリズムが、かつて人類が果たしていた役割を代行することになったがために、かえって人間同士の繋がりがバラバラになり、民主主義を破壊する事態を引き起こしている。このように、インターネットにおいて世界中の様々な人々の意見と触れ合えるようになったはずの人類が、「マシンのアルゴリズム」の働きによって、逆に泡(バブル)の膜の中のような狭い世界に情報的に遮断されてしまう「フィルターバブル現象」は、個々人が「インターネット上に存在する、特定の偏った方向に同じ意見を持つ人間同士のつながり」にはまり込んだ(「マシンのアルゴリズム」の働きによって、はまり込まされた)ことによって、エコーチェンバーの中のような狭い世界に情報的に遮断されてしまう「エコーチェンバー現象」と、相関的にかかわりあっている。

インターネットのコミュニティは、一見国内だけでなく世界中の様々な考えの人々がいるように思えるが、実際のオンラインのソーシャル・コミュニティは、それぞれのコミュニティごとに考えが断片化しており、同じような考えの人々が集団として集まり、コミュニティを構成する全てのメンバーが特定の偏った方向に同じ意見を持っている。ソーシャル・ネットワーキング・サービス (SNS) のコミュニティは、コミュニティ内の人々における出所不明の「噂」を強力に増幅するが、それはコミュニティに属する人々が、自らの属するコミュニティの「公式見解」(コミュニティに属する人々にとっては、これは「真実」と同じ意味である)を考慮しない報道機関の記者よりも、自分たちの奉ずる「真実」を補強するために自らが属するコミュニティの面々が提供してくれた証拠類を信じるためである。自らの奉ずる「真実」を自らがますます補強するという、エコーチェンバーのこのような機能(エコーチェンバー効果)によって、エコーチェンバーの中では、そのコミュニティにおける「真実」への同調的意見のみが許されることになり、批判的議論が大きく阻害されることになる。インターネットに参加する人々がトンネルのように幅の狭い情報基盤だけをもち、自分の属するソーシャル・ネットワークの外側の情報に手を伸ばそうとしないのであれば、社会的議論や共有は困難になる。

インターネット上の言説においては、インターネット上のコミュニティ同士の見解の相違が特に注目されるが、実際は、ネットではなくリアルに存在する数多くの現実のコミュニティ同士においても、政治信条や文化的見解はそれぞれ違い、同じコミュニティ内の人々同士においてすら見解の相違があることも珍しくない。特定のソーシャル・コミュニティ内の「総意」を元に「インターネットを使う全ての人はみな自分と同じ意見を持っている」と錯覚してしまうエコーチェンバー効果は、「実際はネットだけでなく国や地域社会といったリアル世界のコミュニティにおいても、それぞれのコミュニティの言語的感覚や文化的感覚は、自分の属するネットのコミュニティのものとは全く違う」ということを人間に気づかせることを妨げる恐れがある(twitterの仲間内で大ウケしたネタでも、次の日に職場の仲間に言うと差別かセクハラに認定される可能性もある)。いずれにせよ、エコーチェンバー効果は、ある個人の現在の世界観を強化し、それを実際以上に正確で、広く受け入れられた考えであるかのように誤解させる。

引用ここまで

エコーチェンバー効果によって劣等感を深刻化させやすい状況がつくられていっているように、私には思えます。自分と似た人と仲良くなりやすい類似性の法則が負の方向で働いているわけですから、まさか自分の方が間違っているとは思えないのです。優越したいがゆえの攻撃性を剥き出しにするため、他者との触れ合いが困難になり、まわりにいる人たちはみな深刻な劣等感を抱えた攻撃性が高い人のみという悲惨なことになりがちです。そして本人は、自分の劣等感に気づいていないため、歯止めはかかりません。

自慢と攻撃しかしない人が、本当の意味で好かれることはありません。尊敬されることもありません。想像の世界で妄信されたり、妄信したりという、儚い世界に生きることになります。

簡単な見分け方をひとつ紹介します。その人のプロフィール欄を見たとき「自慢」「攻撃性」をベースにした内容が読みとれれば、その人とは距離を置いた方が安全です。その人の友だちのプロフィールも見てみるといいでしょう。記事を書いている人であれば、その文面に劣等感が滲み出ているはずです。「私はすごい」「私は特別」という哀しい主張が透けて見えたら危険な兆候だと思います。一緒にいて息苦しかったら、劣等感が深刻である可能性が高いかもしれません。

もっとも、ストレートに「おれ、すごくね?」という可愛いオッサンもいたりしますので、精査が必要ですが。単に子供っぽいオッサンは可愛がりましょう。

劣等感が深刻でない人は、「自分が好きなこと」や「なんてことない普段の出来事」についてナチュラルに書いているものです。他者に優越したいなんてことを考えていないので、一緒にいるのが楽です。結果として人に恵まれ、しあわせな毎日を送れます。そして、そのごく当たり前のしあわせな毎日を発信しているだけなんだというのが、プロフィールや記事に透けて見えてきます。

奇矯な振舞をしている人がいたら、しっかり距離をとって観察してみてください。「なってはいけない姿」を知ることで、自分の劣等感に気がつけるかもしれません。あと、加藤諦三先生の著作を読んだり、動画を観てみてください。笑ってしまうくらいやらかしている自分に呆れてしまうとともに、救われていくかもしれません。