2024年3月30日土曜日

生きづらさを忘れさせてくれ、楽しませてくれるエンターテイナー。無条件にパフォーマンスを楽しんでくれる人たち。

 エンターテイメントとは、「他者を楽しませる娯楽」 です。多くのファンを集めることができるエンターテイナーは「売れている」と言われます。売れていないエンターテイナーは、その意味を理解せずに活動しています。

 売れているエンターテイナーは、生きづらさを忘れさせてくれ、楽しませてくれます。場合によっては、悲しい気持ちを和ませて癒してくれます。本来の娯楽は利他的な行為なので、返報性の原理がはたらいてファンが増えていくという流れが生まれます。自分らしい、唯一無二の存在として生きていくことができます。唯一無二の存在なので、他の誰かに真似されることもありません。「何をやるかではなく、誰がやるか」なのです。

 一方で、売れていないエンターテイナーは利己的です。動機は「有名になりたい」であり、「輝いている自分を見て欲しい」というエゴであり、自分のことを過大評価した利己的な行為であることがよくわかります。そんな押し売りエンターテイナーの利己的メッセージが観客に届くはずもなく、売れることはありません。人が集まっている場所に押しかけていって、迷惑がられるのが関の山となります。奇抜なことをやって一発逆転を狙いますが、そんなに甘くはないので、徐々にジリ貧となります。

 コロナ禍以降、エンターテイメントのサブスク化が進んだり、物価高で課金してくれる人が減ったり、世代交代で高齢化によってファンが減少したりと、売れないエンターテイナーにとっては集客が難しい状況になってきています。利己的なエンターテーナーにとっては、生きづらい環境だと思います。エンターテイナー本人が生きづらいので、パフォーマンスも重くて暗いものになってしまいます。闇≒病み的な。

 昨日の記事で書きましたが、パフォーマンスをしてみせたときに、10人のうち2人は無条件にパフォーマンスを受け入れてくれる人たち、7人は受け入れてくれたり受け入れてくれなかったりする人たち、残りの1人は何をしても受け入れてくれないしない人です。受け入れてくれない1割の困難な人たちのために無駄なエネルギーを注ぎ込むことは損失になります。受け入れてくれたり受け入れてくれなかったりする7割の人たちに受け入れてもらわなけばと考えがちですが、大切にすべきは2割の「無条件に受け入れてくれる人たち」です。

 この意味で、「有名になりたい」という輝いている自分を見て欲しいという劣等コンプレックスまみれのエゴイスティックなパフォーマンスは無用なのです。すでに喜んでくれている人たちに向けて楽しさを与えることができていれば、それで経済は成り立ちます。不特定多数にアピールするために活動実績を書き連ねて、本来つながるべきでない人たちとつながろうとしてしまうと、本来つながるべき人たちが離れていってしまうのが現実です。

 見た目の活動の派手さと、活動が経済として成り立っているかどうかというのは別の問題で、地味にやっている人たちの方が実は成り立っていたりしていて、面白いなと思います。昨年から、エンターテイメント界の縮小が著しくなってきており、誰が生き残っていくのか見守っています。

2024年3月29日金曜日

気が合わない人と頑張って仲良くなる必要はない

カール・ロジャースの2:7:1の人間関係の法則

 「10人いれば、2人は気の合う人、7人はどちらでもない人、1人は気が合わない人」

Suppose you have 10 people around you.

•Two of them like you (you like them).

•Seven people neither like you nor dislike you (don't care about you).

•One person does not like you.

 自分の考え方や行動について、2人は無条件で賛成してくれる肯定的な人、7人はその時その時で変わるどちらでもない人、そして最後の1人は何をしてもどんなことをしても自分の事を嫌ったり気が合わない人という分類になります。

 誰かに説明をしたり、パフォーマンスをしてみせたときに、10人のうち2人は無条件に考えを受け入れてくれる人たち、7人は受け入れてくれたり受け入れてくれなかったりする人たち、残りの1人はどんなに説明しても賛同しない人です。

 決して賛同しない1人に関しては、どんなに努力しても賛同を得ることはできないわけですから、「どんなに説明しても受け入れられない人だ」と考えて、1割の困難な相手のために無駄なエネルギーを注ぎ込むことは損失になります。無条件に嫌う人に時間や労力を割くのは無駄ということです。

 「全員みんなで仲良く」にこだわるのは無意味であり、必ずいる相性の合わない人に嫌われてしまうことは仕方のないことなのです。「別に私が悪いわけではなく、この人とは何をやっても合わないのだ」と考えると楽になります。気が合わない人と頑張って仲良くなる必要はないのですから。

 むしろ、みんなに好かれようと思って八方美人的に振舞っていると、かえって誰からも好かれなくなってしまいがちです。

 「自分とすごく気が合う人は、そんなに多くはない。わずか2割なのだ。なので、気が合う人たちを大切にしよう」と考えておいた方が、多くの人たちから好かれることになります。

 ちなみに、どちらでもない7割の人たちとは、しっかりとした信頼関係は築けないそうです。自分のことを好いてくれているわけでも嫌ってるわけでもないのですから、それはそうでしょう。無理して迎合する必要はないし、期待して何かを求めるのもどうかしているということだと思います。

 気の合わない人のために時間や労力を割くのをやめて、気の合う人(好きな人)に関わっていくと、楽しい人生になります。

2024年3月28日木曜日

生きるのがつらい理由とその対策について考えてみた

  この世に完璧な人は存在しません。自分も他者も完璧ではないので、失敗するのは当たり前だし、うまくいかないのも当たり前なのです。自分に過度に期待するのも、他者に期待するのも意味がないので、すっぱり諦めて期待するのをやめた方がいいのがわかります。自分の失敗を気に病むのも、他者の失敗を責めるのも、結局は自分が苦しむことになるだけなのでやめておいた方がいいことも。

 失敗して当たり前なので、非難されるのも当たり前、ダメで当たり前と思うと、ずいぶん楽になると思います。

 他者から良く思われようとコントロールしようとする人、上から目線でアドバイスしたがる人、マウントをとりたがる人、イライラして怒ってばかりの人、人の嫌がることばかりする人……基本的に、みんな、不しあわせな人たちなのだということも、すぐに理解できると思います。

 他者を攻撃する人というのは、自分の人生がうまくいっていなくて、不満やストレスを抱え込んでいるものです。本人は自覚してなくても、家庭を含めた対人関係がうまくいっていないのが透けて見えるはずです。うまくいかないストレスを攻撃という形で他者にぶつけているだけだったりします。うまくいっているしあわせな人は、他者を攻撃しようとか思いません。

 そもそも、よく思われたいなんて気持ち自体、ただのエゴイズム(自分の利益を中心に考えて、他人の利益は考えない思考や行動の様式)そのものでしかありません。よく思うか悪く思うかは相手次第なのです。コントロールできないことをコントロールしようとしてみても、うまくいくはずがありません。

 自分と他者の境界を明確にできたら、生きるのが楽になります。

 他者からの評価を気にせずに、楽しいこと(やりたいこと)を優先する。他者に期待せず、他者の期待に必要以上に応えようとしない。ほんとにやりたいことなら、「頑張る」なんて発想は湧いてはきません。やりたいからやってるだけですから。他者に評価されようなんてエゴイズムで動いているからこそ、「認めてもらうために頑張る」という発想に陥って苦しむことになるのです。

 認知的不協和(矛盾する認知を同時に抱えた状態、またその際に覚える不快感やストレス)に陥るので、「自分のやってきたことは間違いではなかった」とか「頑張ってきてよかった」という定番のコメントを連発し始めたら、かなりまずい状況だと思います。多くの場合、認知的不協和に耐えきれずに、長文で長々と自分語りが始まります。

 やりたいことをやった後の感想は、「楽しかったなあ」とか「夢のような時間だったなあ」みたいな感じです。やりたいことをやっているときは、失敗という概念がなくなります。何もかもが思い出に残る貴重な体験となるのです。


 「白黒思考とは、状況を連続体ではなく、たった2つの極端なカテゴリーで捉えること」ジュディス・ベック

 白黒思考(物事を白か黒かと二分して捉える思考)はやめた方がいいです。 「スプリッティング(分裂)」「全か無か」「0か100か」というスタンスをやめて、グレーであったり、中途半端であったり、50であったり、バリエーション豊かな捉え方ができるようになる方が楽しい人生になります。極端に走れば走るほど、生きるのがつらくなります。白黒思考が強すぎると、不適切な行動選択をしやすくなるからです。

 ひとつの考えに固執する、好きと嫌いが両極端、あいまいな状況に耐えられない。人の好き嫌いが激しく、敵か味方かに分け、勝つか負けるかをはっきり考えたり、自分か相手のどちらかが悪いと決めつけがちなときは、白黒思考に陥っています。正義の味方と悪者のいる勧善懲悪的なストーリーを好む幼稚な発想は、最終的に自分の首を絞める展開になります。

 白黒がはっきりしない状況でも、結論を急がずに自然に身を任せ、曖昧なままにしておく「塩漬け能力」を研磨すると、生きるのが楽になり、楽しい時間を過ごせるようになります。

2024年3月27日水曜日

中年の危機に陥り、自分を表現することに重課金してしまう人たち。

 40代~50代=成人後期(人生が上り坂から下り坂に入っていく時期)は、心身の問題を抱え込みやすいとされています。「ミッドライフ・クライシス(中年の危機)」とか「第二の思春期」と呼ばれています。

 社会生活を営む中で、これまでの自分の人生に葛藤を覚え、アイデンティティに不安を感じたりします。能力や体力の限界と共に老いを感じてくる時期です。

 女性ホルモンは40代から急激に減少するといわれており、心身の不調が起きやすくなります。疲れやすくなり、焦燥感、不安、怒り、憂鬱などの症状が頻発します。肌の透明感がなくなってくすみ、ハリがなくなり、しわやたるみが出てきます。容姿面での老いを実感することになります。

 そんな中、「自分の人生は、これでよかったのだろうか」という疑問を感じることになります。自分がほんとにやりたかったことを、やってみたくなります。思春期に好きだったことや楽しかったこと振り返って、未完の行為を完結したくなります。後悔したくないと、考えるようになります。

 そんな、「ミッドライフ・クライシス(中年の危機)」な人たちを巧みに誘惑して、舞台にあがれると重課金させたり、アートの名の元に写真撮影やMV制作で重課金させたりするビジネスがあります。

 傍目には、「何を血迷ってるんだか」という感じなのですが、本人は積年の願いが叶った感動に浸っていたりします。

 当たり前のことですが、ブサイクに生まれ育つと、スポットライトを浴びる=注目される機会はほとんどありません。浴びたところでブサイクなので、まったく評価してはもらえません。ルッキズムをどんなに否定してみたところで、ほとんどの場合は見た目がすべてです。

 「称賛を金で買うのは是か非か?」という議論は、ブサイクにとっては酷な話です。金で買わない限り、称賛されることはないからです。とはいえ、称賛されているのは本人の存在ではなく金なわけですが。

 冷静に考えてみると、40~50代というのは、容姿端麗だった人たちが老化による容姿の衰えを感じて引っ込み始める時期です。そんな中、ブサイクが前に出てアピールしてみたところで、結果は火を見るより明らかです。

 自己完結していればまだ救いはあるのですが、全世界に向けて発信したりしだすので、痛々しい展開となります。やらないで後悔するより、やって後悔した方がいいというのはわかりますが、それ、ほんとにやりたいことなのかと。

 そもそも論、重課金してまでスポットライトを浴びる=注目される必要があるのか考えてみる方が良いのではないかと思うのです。

 元知人が、ひとり、またひとりと、カモになっていくのをSNSで知る度に、そんなことを思います。

見栄を張っても、本物にはなれません。無理に良く見せようとせず、自然体で楽に生きていた方が楽しい時間を過ごせます。

見栄

(他人によく見られるように)うわべを飾ること。他人の目を気にして不相応な体裁をつくろうこと。

見栄を張る

 ことさらに外観を飾る。うわべをとりつくろう。うわべを飾る。外観を繕う。


 「見栄を張っても、本物にはなれませんよ」的なことを、たまに口にします。見栄を張っている時点で、自分で自分が偽物であると実感することになるからです。見栄を張ることで、なりたい自分やあるべき姿に近づくことができると信じているわけですが、現実はそんなに甘くはありません。

 そもそも、なぜ見栄なんて張ってしまうのかというと、「他人から一目置かれたい」という潜在的な願望があるからだと思います。

 少し観察すればすぐにわかりますが、見栄を張る人は自分に自信を持てていません。だから、自分の外観やうわべを飾ることで、なんとか自信を得ようとしているのです。自分の評価がマイナスにならないように足掻く行為であることが理解できます。他者からの評価がマイナスになることは、自分は価値のない人間だと認めることになるので、見栄を張るわけです。

 見栄を張っている姿は、コンプレックスの裏返しに映ります。自分に自信がなく劣等感を抱えているのが透けて見えます。マウンティングをする人は、相手を見下すことで優越感に浸ろうとします。自己肯定感の低さと異常なまでの「褒められたい」という気持ち(強い承認欲求)が透けて見えます。

 あたたかいコミュニティ(家族や仲間たち)に恵まれて生きてきた人たちは、わざわざ褒められたり認められたりしなくても、もう十分に満足しているので、「褒められたい」という理由で見栄を張る人のことが理解できません。

 劣等感を抱えているがゆえに、「みんなの注目を集めていたい」という欲求から奇行に走るわけですが、周囲の人たちは関心をもちません。むしろ、「なるべく関わらないでおこう」と、敬遠されることになります。

 当たり前のことですが、偽りの自分を演出して褒めてもらおうとするよりも、ありのままの姿でいるほうが好かれます。同じく、ありのままに生きている人たちとの友好な関係を築くことができます。

ありのまま(有儘)

実際にあるとおり。事実のとおり。ありてい。あるがまま。ありのまにまに。


 この記事がわかりやすいです → 森田療法における「あるがまま」とは


 目の前で起こっていることに対して、良いことか悪いことかを判断せず、「いま、こういうことが起こっている」と受け入れること。ものごとを「あるがまま」に受け入れること。「こうでないといけない」という固定観念を持たないこと。自分のことを、無理やり良く見せようとしないこと。

 無理に良く見せようとしなくても、自然体で楽に生きている人は、意外と素敵に見えるものです。自分の気持ちに正直に、素直でいる方が、実はずっと楽しい人生になると思います。

2024年3月26日火曜日

自己完結している人は、自分の世界を大切にしています。自分ひとりだけで楽しむことができるため、安定しています。

自己完結的コミュニケーション

 コミュニケーションの機能の一分類。相手に情報や意思を伝え、これに了解を求めるというより、発信人ないし発信集団がこれを表現すること自体を目的とし、そのことによって、自己 (発信人) の心理的緊張を解消し満足させるようなコミュニケーションをさす。意思伝達を目指す道具的、手段的コミュニケーションに対し、,表出的コミュニケーションといってもよい。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

自己完結

 物事について、自分自身の中だけで納得したり決着したりしている様。すべて自分で考えて結果を出すこと。


 自己完結している人は、自分の世界を大切にしています。自分ひとりだけで楽しむことができるため、安定しています。他者や社会にどう見られるかということに対して、極端に興味関心が乏しいために、「そんなことやって、何の役に立つの?」と問われても困惑します。やってるのが楽しいからやってるだけですから。

 自分の世界で完結しているため、他人のどうのこうのとかがあまり気になりません。視点が独自過ぎるため、基本的にマイノリティです。なので、理解してもらえることは稀で、評判はよくありません。

 他者に依存している人は、他者との関係や見られ方、他者に承認されるかどうかに振り舞わされるため、不安定です。自分がどうみられているかが最優先なため、コミュニティの中の立ち位置をとても気にします。他者に依存しているため、自分の軸を見出すのが困難です。

 楽しそうにはしていますが、あまり楽しそうではありません。他者に認めてもらうためにやっているからです。

 当然のことですが、自己完結している人と、他者依存している人の相性はよくありません。お互いに理解ができないからです。「あ~楽しかった」という人と、「褒めてもらえてよかった」という人が楽しみを共有するのは難儀なのです。

 自己完結している人は、ハプニングが起きて失敗をしても「新鮮な体験」と感じるため、それを「恥ずかしいこと」だとは考えません。むしろ、派手に失敗したときにこそ、最高に楽しそうな表情になります。

(ノ≧ڡ≦)テヘペロ!

 他者依存の人は、失敗することは恥ずかしいことだと感じるため、綿密な計画を立てて、失敗することのないように身体を壊すほど練習します(本人は、それもアピールポイントだと感じて、身体を壊すくらい頑張った自慢をします)。ノーミスでスタンディングオベーション的な展開に憧れがちです。

 厄介なことに、他者依存型の人は、自分以外の他者依存型の人を認めません。自分が認められたいからです。面白いことに、自己完結型の人は、自分以外の自己完結型の人を認めることがよくあります。自分が認められることに関心がないためです。さらに面白いことに、自己完結型の人は、他者依存型の人も認めることがよくあります。

 周りに相談せずに自分の考えで決断するなど、自分自身のなかで物事を終わらせるために、他者依存型の人からすれば「必要としてもらえなかった」と感じることが多いのですが、俯瞰してみると自己完結型の魅力がわかってくるはずです。

2024年3月20日水曜日

今日は、国立民族学博物館(みんぱく)に行く予定です。

  今日は、これから大阪府吹田市千里万博公園にある国立民族学博物館(みんぱく)に行く予定です。

運良く開館日になっている

 施設のご案内

国立民族学博物館(みんぱく)は、民族学・文化人類学に関する調査・研究をおこなうとともに、その成果に基づいて、民族資料の収集・公開などの活動をおこない、これらを通して、世界の諸民族の社会と文化に関する情報を人々に提供し、諸民族についての認識と理解を深めることを目的として、1974年(昭和49年)に創設され、1977年(昭和52年)11月に開館しました。

本館展示は、オセアニア、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、西アジア、南アジア、東南アジア、中央・北アジア、東アジアに大きく分けた地域展示と、音楽・言語などの展示があり、ビデオテークでは、世界の人びとの生活や技術などを記録したビデオ番組を見ることができます。また、年に数回、特定のテーマにそった特別展や企画展をおこなっています。

オセアニアから始まり、東周りで地球を一周することができます。旅行気分でじっくりどうぞ。
実際にさわることのできる資料がたくさんあり、さまざまな民族の息吹が伝わってきそうです。

引用ここまで

 以前から、いつか行きたいと思っていたので、じっくりと時間をかけて観てまわりたいと考えております。

 時間があれば、図書館とショップにも行きたいです。
図書館とショップ