解説用の画像をつくり始めました。
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| 呼吸の観察 下位肋骨 |
呼吸の動きはわずかなので、なかなか難しいものがあります。
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| 呼吸の観察 下位肋骨 |
コロナ禍以降、呼吸についての研究を積み重ねてきました。現時点で、呼吸の改善は、さまざまな問題の解消につながると感じております。リアルレッスンに加え、理解を深める画像づくりをしていきたいと思います。
疲れやすい人たちのお話を伺ってみると、血流が悪くむくみやすいということが多いです。代謝が悪く臓器の働きもよくないようです。呼吸が浅いことで、酸素と二酸化炭素のガス交換効率が悪化しているように見えます。呼吸が浅いとストレスに弱くなり、不安を感じやすくなり心身の不調に悩まされるようになるようです。
呼吸をするとき、肺がはいっている肋骨の籠(かご)である胸郭の周りにある呼吸筋が収縮します。呼吸筋は姿勢保持筋の機能低下による姿勢維持機能の崩壊や加齢によって硬くなる傾向があります。深くゆったりした呼吸をするためには、やわらかさを取り戻す必要があります。
安部塾では、吸う筋肉の機能改善のためには背筋を伸ばすというスタンスをとります。鼻からゆっくりと息を吸いながら腰から背中にかけて丸めて伸ばしていきます。吸いきったら、口からゆっくりと吐きながら元の姿勢に戻ります。
吐く筋肉の機能改善のためには、胸壁(きょうへき)を伸ばすというスタンスをとります。鼻からゆっくりと息を吸い、吸いきったら、口からゆっくり吐きながら、両手を後ろへ、そして下へ伸ばしていきます。吐ききったら、ゆっくりと吸いながら元の姿勢に戻ります。
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| 呼吸の改善 |
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| 横隔膜と肺 |
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| 横隔膜と心臓と肺 |
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| 胸骨の動き(吐く) |
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| 安部塾HPバナー 2020/09/28 |
昨日、鞍手の八剱神社にお参りさせていただきました。
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| 修理固成(つくりかためなせ) |
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| 大蛇面 |
どうにもならないことをどうにかしようとすると、苦しむことになります。相手を変えようとすることは、どうにもならないことの最右翼ではないかと思います。元知人が狂っていっているのは、相手を変えようとする救済者妄想に浸り、自己陶酔しているからだという気がしております。
どうにもならないことは放っておくしかおりません。変わらないものは変えられないわけですから、無理矢理変えようとしない……放っておくしかありません。
相手を変えようとすれば、相手が変わらないことに心が乱れ、ストレスでイライラすることになります。放っておくことができれば、心がざわつくことがありません。相手を変えようとしないというスタンスを堅持することによって、人間関係が簡素化されてスッキリしていきます。
相手を変えようとする人は、自分に失望しているのかもしれません。「できなさすぎてストレス」というのは、相手を変えようとする人の特徴とされます。自分に失望しているがゆえに基礎の積み重ねをしませんし、簡単にできることしかしないことで、さらに自分に失望してしまいます。そうなると、相手を変えようとすることにのめり込み、狂っていくのだと思います。
私は最近、人は変わるのではなく磨かれていくのだと感じるようになりました。砂鉄が製鉄されて玉鋼に、玉鋼が鍛練されて刀剣に、刀剣が磨かれて美術品になっていくようなイメージです。変わろうとするのではなく、鍛えられて磨かれることで美しくなっていくのだと思うのです。
「私にはあなたの苦しみがわかる力がある。あなたを救う力がある」という盛大な勘違いは、鍛練と研磨から逃げ続けて自分に失望して闇に堕ちた人間ゆえの所業だと思います。自分語りと自撮りを繰り返してみたところで、鍛えられることも磨かれることもありません。錆びて腐ってしまうだけです。
今月から展開している中心軸鍛練は、ある程度まで進んだら中心軸研磨になるのだなと気づきました。
ただひたすら地道に叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて……鍛えあげた先に磨きあげの段階が待っています。
11月の奥出雲への旅が楽しみです。
ストレス耐性が強そうな人を見ると、実は「メンタルが強い」というよりは、「自分のメンタルに害を与えそうな人と距離を取るのがうまい」ということに気づく。
— 外科医けいゆう/山本健人(Takehito Yamamoto) (@keiyou30) September 20, 2020
メンタルの強さそのものに大差はなくても、ダメージを予見し回避できれば消耗しにくい。
なお、自分はあまり上手くない。
こちらの記事がわかりやすいかと思います。
この人を変えようと思うことが何を意味しているのかと言いますと、現在のその人のありようを否定して、あなたが「普通だ」、あるいはあなたが自分で「正しい」と思っている価値観を、むりやり相手に押しつけることなのです。これはつまり、あなたの価値観だけが正しくて、他の人もすべてあなたの価値観に従うべきだというメッセージであり、他人の価値観に対する帝国主義的な侵略行為でもあるのです。
あなたが自分で「普通」だと思っている価値観や人生観を押しつけようとすれば、境界例の人は、あなたと同じように、このような侵略行為に対して拒絶反応を示すことでしょう。これは、人間として正常な反応なのです。そして、あなたが「この人を変えよう」と思えば思うほど、二人の間にはさまざまな争いが発生することとなり、あなたはますます激しい精神的な消耗を味わうことになるのです。
なまじ「この人を変えよう」などと思って、自分の思い通りに操ろうとするからこそ、不要なトラブルが発生して、お互いに消耗することになるのです。ですから、このような状態を回避するためには、この人はこういう人なんだ、この人はもう変わらないんだ、一生このままなんだと割り切ることで、そこから、ではこういう人に対して効果的に対応するにはどうしたらいいのだろうかというさまざまな工夫が生まれてくるのです。これが境界例の人と付き合っていく上での、最初に必要なことであり、これがすべての第一歩となるのです。
この人を変えようと思うのではなくて、あなた自身が変わればいいというのは、あなた自身がこういう工夫をすればいいということなのです。あなたが他人を変えようとするから、いろいろな争いが発生して、お互いに消耗したりするのです。他人というのはあなたの操り人形ではないのです。あなたの思い通りに動いてくれるはずがないのです。私の気持ちを理解してくれないとか、あれをしてくれない、これをしてくれないと嘆いたり、腹を立てたりしても、境界例の人が「×××をしてくれない」のは当然のことなので。それは、他人だからなのです。あなたの延長のような存在ではなくて、あなたとは別個の存在だからなのです。ですから、こういう人に対応するには、こういう人なんだと割り切って、じゃこういう人に対してどう対応したらいいのだろうかと工夫をしてみればいいのです。つまり、他人を変えるのではなくて、あなた自身が態度を変えるのです。そうすることで、状況が変わってくるのです。
境界例の人と接したときに、反感を抱きながら「この人を変えよう」と思う場合もありますが、最初のうちは共感的な態度で、この人を何とかして救うことはできないだろうかと思う場合もあります。そして、救済者を演ずるという幻想を掻き立てられて、救いの手をさしのべるのですが、境界例の人にさんざん振り回されることとなり、やがて疲れ果てて反感を持つようになったりすることがあります。このような現象は、ただ単に境界例の人に問題があるというだけではなくて、あなた自身の心の中になんらかの隙があり、それが境界例の人と接したときに、救済者幻想という形で現われたりするのです。
余計なお世話を焼くタイプというのは、自分の問題よりも他人の抱えている問題となると、俄然と熱心になる傾向があります。しかも、境界例の人の抱えている問題というのは、非常に華々しい症状を伴うことがありますので、ますます世話を焼きたくなったりするのです。たとえば、手首を切って血だらけになったり、薬を一気飲みして自殺未遂をしたりと、破滅的ではありますが、同時に強烈なドラマ性も持っていたりしますので、そういう人を見かけると、ますます世話を焼きたくなって、じっとしていられなくなるのです。そして、「私は救済者なのだ」という重々しい使命感に燃えて、まるで映画やテレビドラマの重要な登場人物にでもなったかのような気持ちで行動してしまうのです。
自他の区別の混乱というのは、相手の人の中に自分自身の姿を見てしまうことによるものなのです。目の前にいる困っている人の姿と、見捨てられた自分自身の惨めな姿とをダブらせて同一視してしまうのです。そして、まるで鏡に映った自分自身と接するようにして他人と接してしまうので、自分と他人の区別が混乱してしまうのです。それだけではなくて、鏡に映し出された自分自身を救い出そうとしますので、これが他人にとっては余計なお世話となるのです。
このような自分と他人の混乱がさらにひどくなるとどうなるかと言いますと、他人の意向を無視してでも、強引に自分勝手な救済劇を演じようとするのです。自分の生活を犠牲にしてでも、他人の世話ばかり焼こうとするのですが、それが余計なお世話であるが故に、他人からは嫌がられます。そして、このような他人からの冷たい反応に対して、「私がこんなに尽くしてやっているのに、なぜ誰も私に感謝しないのか。みんな、自分のことしか考えていないのか」と、怒りを覚えたりします。もしも、あなたに思い当たる事があるとしたら、あなたは、自分と他人の区別が非常に混乱していると言えるでしょう。
救済者の人は、最初のうちは救済者としての幻想に自己陶酔していたりするのですが、そのうちにいらだちを覚えるようになってきます。せっかく救いの手をさしのべてやっているのに、それが自分の思い描いたシナリオ通りに展開しないことに腹立たしい気持ちになってくるのです。反対に、境界例の人も、自分の思うようにしがみつかせてくれない救済者に対して、強い不信感を抱くようになります。そして、救済者を極悪非道の悪人呼ばわりしたりするのです。しかし、何かの拍子に、しがみつきが満たされたりしますと、突然手のひらを返したように、救済者を天使のような人だと言ったりするのです。救済者の方も、悪態をついたりする相手に憎しみを覚えたり、そうかと思うと、突然自尊心をくすぐられるような事を言われたりして、ご満悦な気分になったりと、まるでジェットコースターにでも乗っているかのような変化に富んだ関係を体験することになります。もしも、両者の思惑が適度にバランスのとれた状態であれば、このような不安定な状態が安定的に継続するという、いわゆるボーダーライン・カップル状態になるわけです。しかし、ボーダーライン・カップル状態になる以前に、関係が破綻してしまうケースも多いのではないかと思います。いずれにせよ、このような強烈なドラマ性を持った関係は、存在感が希薄な人にとっては、精神的な依存を形成するのです。つまり、ドラマ性のあるトラブルが連続して発生するという状態に、一種の精神的な中毒状態(トラブル・ジャンキー)となり、自分でも無意識的にトラブルを誘発するのです。そして、トラブルという嵐の中にいるうちは、相手をしてくれる人がいて、空虚感を埋めてくれるのです。そして、救済者の人も、このようなトラブルの中に長時間いるうちに、いつの間にか「境界例もどき」とでも言った状態になるのです。
自己愛性人格障害の傾向を持った人の場合も、注意が必要です。こういうタイプの人は、自分の歪んだ自己愛を満たすために、弱者を利用しようとします。誇大に膨らませた救済者というイメージを演じようとするのです。そして、その輝かしいイメージを演ずるために弱者を必要とするのですが、あくまでも本来の目的は、栄光に満ちた誇大なイメージを演ずることにありますので、弱者はそのための単なる道具として扱われます。このようなタイプの人は、救済者というイメージを演じられなくなると、とたんに手のひらを返したように冷淡となり、まるで気に入らなくなったオモチャを捨てるかのようにして、弱者を簡単に見捨ててしまうのです。
境界例の人は、特に自我がもろい構造になっていますので、下手に心をいじると、逆に症状が悪化してしまい、自分の手には負えなくなって、結局最後には見捨ててしまうことになるのです。しかも、救済者という幻想に取りつかれていると、「症状が良くならないのは本人が悪いからだ」などと、責任を全部相手に押しつけてしまったりするのです。自分のやった無謀な「治療?」行為をすべて棚に上げて、「自分は『正しい』治療をしてやっているのに、救いようのないやつだ」などと言って、境界例の人を見捨てしまうのです。このようなことは、境界例の人をさらに悲惨な状態に追いやることになりますので、自分勝手にセラピストを演ずるのはやめてください。
自分の能力も省みずにセラピストの役を演じて、困っている人を救済しようと試みるのです。そして、まるで神にでもなったかのような全能感を味わおうとするのです。このような全能感が、空虚でみすぼらしい自分自身の現実を覆い隠してくれるからです。このような妄想領域に入ってきますと、現実に対する検討能力が低下していって、いい加減な治療をやったり、あるいは自己流の奇妙な治療方法を考え出したりするのですが、本人は「治せる」という、なみなみならぬ確信を持っていたりするのです。そして、もし治療が失敗しても、それは本人の行いが悪いからだとかいって、絶対に自分の非を認めようとはしません。
引用ここまで
他の記事も素晴らしいので、ぜひ読んでみてください。身体操作指導を生業にしている人は、うなずけることや反省してしまうことがたくさん書いてあるかと思います。
『ゲシュタルトの祈り』
私は私の人生を生き、私自身のために生きます。
あなたはあなたの人生を生き、あなた自身のために生きます。
私はあなたの期待に沿うために生きているのではありません。
あなたは私の期待に沿うために生きているのではありません。
あなたはあなたであり、私は私です。
私たちの心が、たまたま偶然にふれ合うことがあったとしたら、それは素敵なことです。
心が触れ合わなかったとしたら、それはしかたがないことです。
私とあなたが、私たちの基本です。
一緒にいてはじめて世界を変えることができます。
フレデリック・サロモン・パールズ(Frederick Salomon Perls)
対人関係ストレスは、他人との関係を義務や期待に基づいて構築することで強くなっていきます。本来は、義務や期待に基づいて他人との関係を築く必要はありません。誰かを助けてあげようと行動したとして、その助けを受けいれるかいれないかは相手しだいです。自分は自分のできることをするしかありませんし、助かるための努力をするのは相手の問題となります。
相手の問題に対して、自分の問題ではないという境界線をひくことは、とても大切なことです。相手が自力でのり越えるべき課題を何とかしようとすることは、相手にその力がないと判断して弱き者として見下しているということです。相手に対して自分の思うい通りの存在でいて欲しいという期待は、コントロール(操作であり支配)です。相手を思い通りに動かしたいだけに過ぎません。
境界線(バウンダリー)……「私」と「あなた」をわける線。境界線が守れている状態とは、「私とあなたは別々の存在=違う人間であり、違った考えと異なる価値観をもっている」という現実をお互いに認め合うことができます。それぞれの人間性はもちろん、役割や責任を最大限に尊重してコミュニケーションをとることができ、相手に自分の役割や責任を押しつけたり、逆に相手の責任を無駄に背負うような関係にはなりません。お互いを尊重できるため、不要な摩擦の少ない関係を構築することができます。境界線が構築できない関係は、お互いを尊重することができないため、不要な摩擦が連鎖的に生じてしまいやすくなり、トラブルにつながりやすくなります。
相手をコントロールしないために、境界線の引き方を学ぶことが大切だと思います。「ここからここまでは私の領域、そこから先はあなたの領域」ときちんと線引きしていくことが基本です。他人をコントロールしようとするのはアウトですし、自分の人生に責任を負わないのもアウトです。
他人を自分のコントロール下に置くことが成功と幸福を達成する方法だと信じている人は多いと思います。幼少時に生存スキルとして他人を自分のコントロール下に置くことを学んだためだと考えられます。しかしこれでは、良好な対人関係を構築することはできません。
自分のニーズよりも他人のニーズを優先し、他人の問題解決に夢中になる人も多いと思います。健全な関係は、適切な境界が土台となった感情的空間において成立します。境界を適切に守ることは、精神的健康を取り戻すには不可欠だとされています。他者のニーズを満たすために極度の犠牲を払うことで、当人が自給性や自律性を持たない不健全なペアという状態は、ペアの一方または両方が、自分自身の充足の為に、もう一方に依存しているという状態です。自分の価値が他人に由来するという勘違いのために、他人の人生を第一義に考えてしまっている状態となります。
「自分と他人との適切な境界線を引く3つの基本」
①他人の問題を自分の問題にしない
②他人の責任を自分の責任にしない
③他人がやるべきことを自分がやらない
常に、この3つを気にすることが大切だそうです。境界線を引けないでいると、本心ではやりたくないことをやることになったり、他者の行動や感情のケアをすることになったり、他者をコントロールしようとしたりしてしまって、対人関係ストレスを蓄積する結果に也がちです。自分が相手の境界線を越えてしまう人は同時に、相手にも簡単に自分の境界線を越えられてしまうということになるからです。
ゲシュタルトの祈りを詠唱しながら、適切な境界線を引くことの大切さを実感しております。