姿勢改善のコツのひとつに、「何かをする」よりも「何もしない」ほうが姿勢がよくなるというものがあります。よく誤解されているコツだと思います。「余計なことをしない」という意味なのですが、ほんとに何もしないのだと解釈してしまったりするようです。「脱力」の問題と同様、「余計な力を入れない」ということの意味を理解するということ自体が難しいのではないかと思います。
よく例えに出されるのが、膝関節の過伸展(反張膝)です。膝はまっすぐな状態(完全伸展位)までしか伸びないのが無理がないのですが、その位置を越えて、さらに伸びた状態(過伸展位)までもっていってしまうのは無理が生じます。脚を横から見たとき、脚が後ろに弓のように曲がって変形している場合、膝関節の前面に過度のストレスを誘発するため、膝の痛みの原因になったりします。
膝関節の過伸展 |
人によっては、「膝関節過伸展=美しい」という価値観をもっていたりするため、膝関節を後ろに押してしまって膝関節の機能障害を引き起こしてしまうことがあります。「バックニー」と呼ばれており、審美競技者が陥りやすい問題のひとつとして、よく知られています。姿勢改善の世界では、「膝は前にあること」が大切だと考えられております。
膝に限りませんが、審美競技者は過剰運動<hypermobility>症候群になりがちだと思います。私は、全身の複数の関節不安定性(可動域の亢進・関節過可動)があることには、デメリットが多すぎると考えております。
声がきれいな人の動きを観察してみましょう。
頭の位置を直す場合も、「余計なことをしない」という意識が重要だと考えています。本来、自然に「うなずく」構造になっているので、それに逆らわなければ、自然と頭部はあるべき位置に動いていき、姿勢と呼吸と動きがよくなっていきます。頭は前・上へ動き、首が自由で楽な状態にバランスするようになっているからです。余計なことをするから、おかしなことになってしまうのです。
頭部のうなずき運動 |
声がきれいな人の動きを観察してみましょう。
①軽く微笑みつつ、唇がわずかに少しひらく。
②下の前歯が上の前歯よりもわずかに前に出る(上あごに対して下あごがわずかに前に)
③下あごが落ちて、下の前歯の後ろに舌の先が軽くつく。
④りきみなく発声する。
……というような流れが見てとれるかと思います。何より、発声と同時に脊柱が長く伸びて頭の位置が高くなっていくのがよくわかるはずです。
きれいな声が出ない人を観察すると、身体の特定部分に力を入れて(りきみ)、発音したつもりになっていたり、口をあけるときに頭の位置が低く下がってしまっていたりするものです。この特徴はそのまま、余計なことばかりしてかえってうまくいかない人たちによく見られるため、指導者講習などでよく話題にあがります。声が重い人は、見た目の雰囲気も重く、頭が沈んでしまっており、筋肉的に発音することがよく知られております。筋肉的な声は耳障りなため、さまざまなデメリットを生じるようです。
「無為自然」という老子の言葉があります。「無為」とは「作為的なことをしない」という意味だと考えております。「自然」とは自ずから然り。
"doing nothing often leads to the very best something."
「何もしない」は、いつも最高の何かにつながる(プーと大人になった僕)。
ソファやベッドでゴロゴロして何もしないという意味ではないと思います。「やるべきことをきちんとする」ということが「何もしない」ということなのだと考えております。
良寛さまの「「優游復優游(ゆうゆうまたゆうゆう)、薄(いささ)か言(ここ)に今晨(こんしん)を永くせん」という言葉が好きです。「この草庵の暮らしは、何もない無一物だが、何にとらわれることもなく、心はただ「優游」と表現するしかない。これがわたしの生だ、朝がくるごとにその「いまここに」を大切に生きるとしよう」……何にこだわることもなく、何を憂えることもない心の状態であってこそ、「何もしない」ができるのだという気がいたします。
"doing nothing often leads to the very best something."
「何もしない」は、いつも最高の何かにつながる(プーと大人になった僕)。
ソファやベッドでゴロゴロして何もしないという意味ではないと思います。「やるべきことをきちんとする」ということが「何もしない」ということなのだと考えております。
良寛さまの「「優游復優游(ゆうゆうまたゆうゆう)、薄(いささ)か言(ここ)に今晨(こんしん)を永くせん」という言葉が好きです。「この草庵の暮らしは、何もない無一物だが、何にとらわれることもなく、心はただ「優游」と表現するしかない。これがわたしの生だ、朝がくるごとにその「いまここに」を大切に生きるとしよう」……何にこだわることもなく、何を憂えることもない心の状態であってこそ、「何もしない」ができるのだという気がいたします。