支配服従関係にならないよう、対等であることを奨めています。
『お互いに、好きなようにやること』が基本です。
相手を思い通りに動かしたい=コントロールしたいという気持ちは手放します。
世の中には、支配的な指導者もいます。
従順であること=服従することを相手に強制します。
これ、やればやるほどしあわせから遠ざかります。
仲間って、対等な関係そのもののことですから。
人間関係において計算をしてはいけません。
計算が入るのは支配服従関係だからです。
裏には、相手を思い通りに動かしたい下心があります。
計算なんてしているうちは、対等な関係は築けません。
威張ったり、虚勢をはったりするのは、自信がなくて不安だからです。
本当に自信がある人は、自分の力を誇示する必要がありません。
誇示したがる人は、自信がないのです。
「特別なことをしなくても認められ、尊敬されている」という安心感がないのです。
アドラーさんの『共同体感覚』。
他者を仲間と見なし、そこに 「自分の居場所がある」 と感じられる こと。
これ、大切です。
人間関係の中心に自分をすえて、自分を出発点に考えるとどうなるか?
他人に求めてばかりということになります。
特定の誰かをのみを仲間と認め、自分のことを理解してもらおうとする。
「自分と相手の課題の分離」 ができないので、相手の課題に干渉します。
鬱陶しいですよね。
なので、孤独になります。
一方、それぞれがそれぞれの人生を歩めばいいと考えるとどうなるか?
共同体の一員として、社会に貢献しようとします。
存在する人すべてを仲間と認め、誰とでも同じように接します。
「自分と相手の課題の分離」ができるので、相手の課題への干渉を避けます。
爽やかですよね。
なので、豊かな人間関係に恵まれます。
特別な誰かにだけ愛されようとする生き方は、孤独への道まっしぐらです。
ひろく社会に対して貢献していきたいという生き方は、みちみちですw
自己中心的な人は、他人の評価に怯え、他人に気をつかい、他人に合わせようとします。
これ、全部、相手を思い通りに動かそうとする行為です。
他人への関心を失った、自分にしか関心が向いていない状態です。
相手がこちらのことをどう思うかは相手の課題なのです。
共同体に対して、「何を与えてくれるのか」を期待しないこと。
自分が 「何を与えられるのか」 ということに集中すること。
「何を与えられるのか」 という姿勢でいないと、居場所を失います。
これも、とても大切なことです。
「何を与えてくれるのか」 という姿勢でいると、派閥や争いが生まれます。
それぞれが「課題の分離」 ができないわけですから、当然の展開です。
認められたいからと、自己満足(名誉とか地位とか)のために動きます。
そんな、派閥や争いがあるような共同体に、安心できる居場所はありません。
自分の意思で『つまらない仕事』を、楽しみつつ淡々とこなしましょう。
そうしていると、驚異的な勢いで自分の居場所がつくれます。
楽しい仲間が増えていきます。
だから、相手に求めずに、ただ貢献したいという姿勢を貫きましょう。
それが、中心軸というものです。
そこらへん、いたるところが、自分の居場所になります。
特定の共同体に固執する必要なんてありません。
いろんな人たちと、幅広く、交流を重ねることです。
ドロドロで鬱陶しい人間関係の対極にある、爽やかな人間関係が築けます。
劣等感、他人の評価によるものではありません。
他人から高い評価を得ても、 どうにもなりません。
主観的な問題なのです。
「自分が自分のことをどう思うのか」 なのですから。
自己評価が低いと、自分自身に価値を見い出せません。
自信を持てないので、本来の能力が発揮できません。
人によく思われたい人ほど、現実とかけ離れた自分を演じようとします。
そして、壊れます。
現実の自分を認め、受けいれるとどうなるでしょう?
自分の身の丈に合った、現実的な改善方法を見つけることができます。
成長の効率が良くなるます。
なにより、楽しく生きていくことができます。
腸腰筋 |
僕は、支配的な指導者を育成したくありません。
仲間たちと一緒に、自分たちの快適な居場所をつくりたいのです。
対等でいれる指導者の育成。
それが、僕がやりたいこと=与えれることなのです。