どっちが正しい?
どっちが間違っている?
正義と正義がぶつかると、無益な争い・戦いが始まる。
争いや戦いで正義を証明しても、心は満たされない。
美しくないからね。
感性を研磨しないと、『何が美しいか?』はわからない。
美しさを理解する心は、『慈しみたいという感情』とつながっている。
慈しみたいという感情なしには、美しさを感じとることはできない。
慈しみとは、結果を求めずにやさしくできるということ。
神舞のフリツケをなぞるだけでは、美しい動きはできない。
そこに、他者に対するやさしさとか世界に対するやさしさとか・・・・・・
『慈しみたいという感情』が透けて見えないと美しくはない。
もちろん、自分自身に対する慈しみの感情もね。
慈しみという感情が具現化したのが神舞の所作なのだ。
だからこそ、観る者の心が奪われてしまう。
じっと魅入ってしまう。
なんだかよくわからないけど、涙がこみあげてくる。
神舞は、不平不満や自慢に満ちた心では舞えない。
恨みや憎しみの念は美しくないからね。
自分が他人よりすごいということを証明しようとする動き。
そんな慈しみのカケラもない所作なんて美しくない。
舞台の上でだけ美しくなれるはずがない。
なんでもない日常が大切。
日々、やさしさをあげっぱなしにできているかどうか?
それが舞台上で明らかになるというだけのこと。
毎日の生活の中で、他人に期待をしないこと。
他人に変な期待をさせないということ。
頼まれごとを安請け合いしないこと。
ただ見守ることができているということ。
きちんと自分と他人の境界線を引くこと。
自分が笑顔でできること以上のことをしないこと。
他人の言動に振りまわされないこと。
そうしていれば、他人にやさしくし続けることができる。
他人の期待に応える必要はない。
他人に期待に応えてもらう必要もない。
そんな人は所作のすべてが美しい。
慈しむ=ただ見守ることができるから。
慈しみという感情が溢れていれば、所作のすべてが神舞となる。
ただ立っているだけ。
ただ歩いているだけ。
ただまわるだけ。
ただ手を上げるだけ。
そんな、ひとつひとつの動きが心を奪われるほどに美しい。
日々、期待しない・させないということを大切にしたい。
人は、自分の人生をきちんと生きていればいい。
お互いの期待に応えるために生きているのではないから。
そうしていれば、慈しみの感情が少しずつあふれてくると思う。