2024年3月1日金曜日

ことばがあるから認識や思考ができる。ことばが違うと認識や思考にも差がでる。国が違えば生活様式も違い、生きるために必要な物や行動も異なる。ことばが違う者同士でコミュニケーションを取るときは、前提や概念がそもそも違うことを念頭に置く必要がある。

言葉と世界 今井むつみ                                            

 言葉は世界への窓であるとは、言葉を通して世界を見たり、物事を考えたりしていることである。言葉は私たちの世界の見方、認識の仕方と、どのような関わりを持っているのか。例えば、「水」「緑」「左」を、大人と子どもは同じように理解しているのか、言語が違う人々は同じように理解しているのか。言葉による世界の切り分けとは多様である。

 「言葉によって世界を切り分ける」とは、カテゴリーに分けることである。カテゴリーとは、「同じ種類のモノの集まり」である。個体の名前である固有名詞ばかりでは、個体としての区別しかつかない。カテゴリーの名前を持つことの利点は、無限に存在する個体を意味があるまとまりとしてまとめ、「同じモノ」に共通の特徴のみを問題にして、世界を整理していけることである。カテゴリーは「モノのカテゴリー」だけでなく「動作のカテゴリーもある。

 モノとモノとの空間の位置関係を、言葉がどのように表現するか。言語は三次元空間上に無限に存在する二つのモノの位置関係を、非常に限られた数の「位置関係のカテゴリー」に区分けし整理している。例えば、「前」「後」「右」「左」について考える。「前」と言う言葉は、視点に依存し、相対的に決まる。自己中心枠とモノ中心枠の二つの視点がある。

 自己中心枠は、話し手の体を中心にして目のある方を「前」と言う。モノ中心枠は、モノにもともとある顔や進行方向などを「前」として中心にする場合である。

 「ボールは木の前にある」と言う場合、日本人は、木が自分と対面し自分の方に向いていると思うので、ボールは木と自分の間にあると認識する。ところが、ハウザの言語は、正面(顔)のないモノは自分と同じ方向に向いていると思うので、ボールは木の向こう側にある。

 私たちが「見ている」世界は、言葉が切り分ける世界そのものなのか、言葉が切り分ける世界は、私たちが「見ている」世界とは別のものだろうか。

引用ここまで

ことばと思考

 ことばがあるから認識や思考ができる。ことばが違うと認識や思考にも差がでる。国が違えば生活様式も違い、生きるために必要な物や行動も異なる。だから語彙群に濃淡が生じる。このような状況で異なる言語間でディスカッションしたら確かにズレは起きやすい。

 ことばは、思考や認識のフィルターとなって、あらゆる事象の歪みとなる。ことばが違う者同士でコミュニケーションを取るときは、前提や概念がそもそも違うことを念頭に置く必要がある。

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