2013年9月2日月曜日

ヨガの練習に励むというその姿そのものが『健康』なのだということに気がついた。

健康の定義についてより

WHO憲章では、その前文の中で「健康」について、次のように定義しています。

Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.

健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)

この定義によって、WHOでは、医療に限定されず幅広い分野で、人々の健全で安心安全な生活を確保するための取り組みが行われているのです。 この憲章の健康定義について、1998年に新しい提案がなされたことがあるということはご存知でしょうか。

Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.

静的に固定した状態ではないということを示すdynamic は、健康と疾病は別個のものではなく連続したものであるという意味付けから、また、spiritualは、人間の尊厳の確保や生活の質を考えるために必要で本質的なものだという観点から、字句を付加することが提案されたのだと言われています。

この提案は、WHO執行理事会で総会提案とすることが賛成22反対0棄権8で採択され、そのことが大きく報道されました。そのため、健康定義は改正されたと誤解している人も多いのですが、その後のWHO総会では、現行の健康定義は適切に機能しており審議の緊急性が他案件に比べて低いなどの理由で、審議入りしないまま採択も見送りと
なり、そのままとなっています。

日本語では、mental も spiritual も同じく精神的と訳してしまいそうになるのは、宗教に希薄な国民性のためかも知れません。ともあれ、どう翻訳すべきかを考えてみることも、私たちが「健康とは何か」を考えるヒントのひとつになるかも知れません。  

(文責 事務局 松村)


鹿児島WSのオーガナイザーさんと、腹を割ってお話をさせていただいた。

『健康と癒しと触れ合い』をテーマに、一緒にやっていきたいとのこと。

来年のとあるイベントに向けて、全面的に協力していく覚悟を決めた。

また発表できない事情があるので、まだここには書けないのだけれど。


鹿児島から戻る車中で、ふと思った。

『健康になるためにヨガをするという発想は違うのかもしれないな』

ヨガの練習に励んでいる人ほど実感があると思うのだけれど……

『健康になるためのヨガでは、健康状態は良くならない』という気がするのだ。


道元さまは、『禅僧のよくなる第一の用心は只管打坐なり』とおっしゃった。

『余計なことを考えず、ただひたすら坐禅せよ』と。

ついつい、禅語録を読んだり、公案したり、呼吸法にこだわったり……

でも、そうじゃなくて、ただひたすら坐ればいいのだと。


『坐禅の時は諸縁を放捨し、萬事を休息し、善悪を思わず、是非を関することなかれ』


これって、ヨガの練習にも言えるんじゃないだろうか?

『健康になるためのヨガ』は、『何かになるためのヨガ』だ。

そうじゃなくて、ただひたすらにみんなと一緒に練習をする。

その姿こそが、『健康』なんじゃないかと。


そう考えてみると、『何のためにヨガをするのか?』という質問は愚問となる。

『ヨガの練習に励むというその行為そのものが尊い』からだ。

ポーズの完成を目指さなくていい理由もこれ。

最初からゴールしているようなものだからね。


でも、それがわかった上で、僕は『~になるためのヨガ』をやることにした。

ヨガを始めるきっかけは、そんな理由でいいと思うのだ。

僕たちイントラは、自らが練習する健康な姿を見せればいい。

というか、それ以外に僕たちにできることなど何もない。


だから、僕は自信を持って今後のことに取り組める。

『僕たちと一緒に練習しませんか?』と誘える。


参加者の方々から、たくさんの喜びの声をいただけた。

それだけ、楽しんでもらえたのだと感謝している。

これからも、みんなと一緒に練習していきたい。

この思いを、みんなと共有していきたい。