2023年3月6日月曜日

自分の外部に言い訳を探す人は、決して満足するということがない。自分の過失を認め、そうした経験を消化することが必要である。

 

幸福論(アラン) (岩波文庫) アラン (著)、Alain (原名)、 神谷 幹夫 (翻訳)

 「幸福論(アラン)」は、「プロポ(哲学断章)」と呼ばれる短い文章の集合で成り立っています。「幸福になるための考え方」について、

 人間は元来、悲観主義者である。自分も周囲も、何もしなければ不機嫌が横溢している。自ら意識して「幸福になろう!」と思わないと、一生そこから抜け出せない。

 とはいえ、鬱に抗ってはいけない。人間には躁の時も鬱の時もある。冬と夏、雨と晴のように、喜びも悲しみもまた同じである。無理して自分を制御せず、あるがままに受け入れた方が幸せである。

 自分が不幸であることに不機嫌になってはいけない。不幸なだけでも十分なのに、不機嫌になることはそれに輪をかけて二重に不幸になる。そして人の不機嫌は周囲に伝播する。私たちは他人の不幸に耐えるに足る力を持っていない。二次災害である不機嫌は高度に制御すべきである。

 体を動かすことは気分転換に繋がる。宗教儀式にも取り入れられている。例えば、ひどく苛立った人は、ひざまずいて安らかさを求める。正しくひざまずけば、怒りは取り除かれ、安らぎを得られるのだ、人間の情念は、適当な運動によって制御できる。

 自分の外部に言い訳を探す人は、決して満足するということがない。自分の過失を認め、そうした経験を消化することが必要である。

 何かに隷属することは明らかに不幸であり、自分で自分の人生を決められる行動の自由を有することは、それ自体で幸福である。誰でも、極めて易しいが命令づくの仕事より、難しいけれども自分の意志で進められる仕事の方を好むだろう。

 何の役に立つか分からない仕事をするのは苦痛である。しかし、たとえ一日がかりの仕事でも、実際に役に立つ仕事であれば、人はそれ自体を楽しむことができる。

 金持ちだからといって幸せになれるわけではない。金持ちは時間を持て余し、病気・老衰・死などの余計なことを考えて、結局不幸になる。或いは賭け事や観劇など、ロクでもないことで退屈を凌ぐのだ。

 礼儀正しいとは、全ての身振り、全ての言葉によって「苛立つまい、人生のこの瞬間を台無しにすまい」と口に出して言うか、表情で示すかすることである。

 私にとってとりわけ明瞭だと思われるのは、幸福たらんと欲しなければ、絶対に幸福にはなれないということだ。それゆえ、自分の幸福を欲し、それを作らなければならない。気分というものは、常に不機嫌なものだ。そして、あらゆる幸福は、意志と抑制から生まれる。