2020年8月2日日曜日

人は、自分が見ている方向に進んでいきます。「正しい方向」とは「他者貢献」「社会貢献」です。「何者かになりたい」のは「我」でしかありません。

 昨日、下関での講座を終えて自宅に戻る道すがら、「人は、自分が見ている方向に進む」という言葉の意味を実感しておりました。進む方向が正しくて人生が順調なときは、「幸福感を」感じます。良いタイミングで良いことが起き、体調も良好です。進む方向が間違っていて人生が不調な時は、「絶望感」を感じます。嫌なタイミングで問題が繰り返し起き、体調は不良です。興味深いことに、進む方向が正しい人には「ちょっとした問題」が単発で起き、進む方向が間違っている人には「同じような深刻な問題」が何度も起きます。間違いを認めるまで、繰り返し繰り返し何度も何度も問題が起き続けます。

 当たり前のことですが、「正しい方向」とは「他者貢献」「社会貢献」です。他者のために力を発揮している状態です。人は、自分が見ている方向に進んでしまう習性があるので、他者貢献という視座をもつことで、人生は順調になっていきます。自分の思考・行動に間違いがあると、同じ問題が繰り返し起きるということはすなわち、他者貢献という視座が欠けているということです。現在、自分の周りで起きている問題は、過去に自分がしてきた思考と、とってきた行動の結果です。タイムラグがかなりあるので実感しづらいのですが、遡ってみると意味がわかるかと思います。

 厄介なことに、思考や行動の間違いによって起きる問題は、回数を重ねるごとに次第に大きく複雑になっていきます。そして、自分で自分の誤りに気づき、間違いを認めるまで、問題は起き続けます。つまり、正しい方向を向いている人には「ちょっとした問題」が単発で起き、そこで自分の誤りを正すので問題は起きなくなり、間違った方向を向いている人には「何度も何度も繰り返し繰り返し深刻な問題」が起き、回を重ねるごとにより深刻な事態になっていくということになります。自分の間違いに気がつくのが早ければ早いほど、改めるのが早ければ早いほど、より正しい方向を見ることができます。

 困ったことに、現在の自分の周りにいる人たちは、自分と同じような考えをも人たちばかりです。さらに、SNSの発達によりエコーチャンバー効果が強くはたらくようになってしまったため、「自分は正しい」と思い込んでしまいやすくなってきています。自分の思考の間違いに気づくことが、とても難しくなってきていると思います。自分が正しいかどうかは、自分の人生がほんとうにうまくいっているのかどうかを第三者視点で判定してみるのがいいのですが、「自分が正しい」と思い込んでいる状態ではこれができないために間違いを正すことができなくなってしまいます。

 何者かになるために他者貢献をしようとすると不満がたまります。正しい方向が他者貢献というだけの話ですので、現代社会では、普通に仕事をして納税していくだけ社会貢献できます。もうおわかりだと思いますが、誰かに相談してしまう人というのは、「何者かになろうとしている人」なのです。下手すると、相談に乗りたがる人と化し、本来進むべき方向とは真逆の方向にフル加速してしまうことになります。特別な方法論なんてどこにもないのですから、自分にできることをやっていけばいいだけです。

 簡単な話、「人に恵まれない」という人は、他者貢献していないというだけのお話です。そして、別に人に恵まれる必要を感じない=他者との縁が薄くても気にならないのであれば、義務で他者貢献する必要はありません。この場合も、人は自分が見ている方向に進むだけです。私個人としては、人に恵まれる人生は非常に素晴らしいものだと感じますので、絶賛おすすめしたいところですが。

 身体操作の勉強を始める人の多くは、「体調を良くしたい」という動機で動いているのではないかと思います。体調不良の原因が「何者かになりたい」という我の強さに起因する場合、身体操作の原理を理解することができなくなります。「余計なことをしない」のが極意なのですから。「何者かになりたい」という願望から生みだされる動きはリキミでしかありません。リキミを繰り返すうちに、さらに動きが崩壊していきます。

 自撮りにハマる動機や、SNS自分語りやプロフィール長くなる動機もそうですが、やっている本人は、どこまでも「自分が正しい」と思ってやっています。本人が好きでやっていることであり、結果責任を背負うのも本人です。実人生がうまくいっているときにハマる人は、それほどいないと思います。撮る暇も語る暇もありませんから。自撮りや自分語りが他者貢献になるレベルの人は、職業としてやっておられます。

 8月からの安部塾は「何者かになろうとするのをやめる」というテーマを加えていこうと考えております。「余計なことをしない」という循環の一部としていきます。何者かになろうとするのをやめることで、時と場合に応じて「何者にでもなれるリキミのなさ」を実現できていけたらいいなと考えております。