贈与論 (ちくま学芸文庫) マルセル モース |
贈与論 より
『贈与論ーアルカイックな社会における交換の形態と理由』 は、フランス出身の社会学者、文化人類学者であるマルセル・モースによる社会学、文化人類学の書籍。
モースは本書において、贈与の仕組みと、贈与によって社会制度を活性化させる方法を論じた。
贈与の義務
物を与え、返すのは、互いに敬意を与え合うためである。人は自分自身や自分の財を他者に負っており、何かを与えるのは自分自身を与えることにつながる。贈与は双方的なつながりを作って他者を受け入れることにつながり、集団間の戦いを防ぐ。また、集団間の贈与で獲得した財は構成員に再配分される。このため、贈り物は与えなくてはならず、受け取らなくてはならず、しかも受け取ると危険なものになり得る。モースは贈与を構成する3つの義務として、与える義務、受け取る義務、返礼の義務をあげた。
1)与える義務:与えるのを拒んだり、招待をしないのは、戦いを宣するに等しい。ヨーロッパの伝承にもあるように、招待を忘れると致命的な結果となる。
2)受け取る義務:贈り物を受け取らなかったり、結婚によって連盟関係を取り結ばない、といったことはできない。受け取りを拒むのは、返礼を恐れているのを表明することにもつながる。
3)返礼の義務:この義務を果たさないと、権威や社会的な地位を失う。権威や社会的地位が財や富に直結する社会では、返礼が激しい競争をもたらす場合がある。
贈与と霊的な力
モースは、贈り物は人に対してでありつつも、神々や霊、自然の存在を念頭になされている点を指摘した。この世にある物の真の所有者は神々や霊であり、したがって交換が必要な相手、交換が危険な相手、そして交換が容易な相手も彼らだという思想にもとづく。
贈り物には霊的な力が宿っており、贈り物はもとの所有者や聖所に戻りたがるという性質も持つ。
引用ここまで
わかりやすくまとめてあります → 1507夜『贈与論』マルセル・モース|松岡正剛の千夜千冊
おそらく本当の価値観の互酬性を、今日の社会はほしがっているのである。それはポイントカードでは得られない。グルナビでも得られない。価値観の相当と充当は収入だけでも得られない。
ポリネシアの「マナ」(大切にするもの)についての記述をあらかた了えて、モースはこう、書いていた。「贈与がもたらすもの、それは存在の名誉というものなのである」。
引用ここまで
筋肉連鎖と贈与の連鎖のシステムはよく似ています。
筋肉連鎖が感情をベースに行われることを考えたら、似ていて当然です。
思い出してみましょう。
1)贈与する義務
贈らないことは礼儀に反し、リーダーのメンツは丸つぶれに
2)受け取る義務
たとえ「ありがた迷惑」でも拒否する権利はない
3)返礼する義務
お返しは絶対。
これ、筋肉連鎖の初動と同じです。
与えられた動きを受けとないわけにはいかないし、返さないといけません。
末端から動きを始めるにせよ、中心から動きを始めるにせよ、原則は同じです。
末端から中心へ、中心から末端へ、動きという贈り物が連鎖していく。
それが、運動連鎖です。
翻って、身体操作法で生きていくということは、どういうことか?
これがわからない人は、体験レッスンやキャンペーンをうちます。
わかっている人は、ごにょごにょします(笑)。
贈与の連鎖を理解できていれば、筋肉連鎖も容易く理解できるのです。
現実社会の方がわかりやすいので、生活ネタで書いてみましょう。
『上から目線でアドバイスしてくる人(見下し感満載)』の人。
『まわりからアドバイスを求められる人(愛され感満載)』の人。
前者は憎まれ、後者は愛されます。
贈与の連鎖です。
上から目線で語られるアドバイスなど、誰も受けとりたくはありません。
結果的に、視ない・聴かないという返礼に出ます。
悪意には悪意が返ってくるのです。
シンプルです。
リキんだ動きを贈ると、故障(ケガ)が返ってくるのと同じです。
この理由で、リキみがある人は互酬的贈与の感覚が狂います。
結果、身体操作法の指導で食べていけないという事態に陥ります。
と、ここまで書いてみて、これは文章では伝わらないなと思いました。
明日の塾生講座で解説します。