質問があったので、「理想化と価値剥奪(こき下ろし)」について少し書いてみます。
理想化とは、相手は自分の要求を何でも叶えてくれる素晴らしい人であると認識することで、価値剥奪とはそれまで理想化していた対象をこき下ろし罵声などを浴びせ相手の尊厳を傷つけるような行為を行なうことです。
対人関係が「奴隷か敵か」となりがちで、相手を完全に支配して奴隷のようにするか、でなければ敵対してしまうかという感じで極端な状況になることが多くなります。他人を操作しようとする作為的な行動様式をとる場面も多くなるようです。
なんか理想化されたかと思ったら、ある瞬間から激しく責められ、悪者扱いされて混乱してしまった経験がありませんか? こき下ろしからの誹謗中傷を聞かされた人たちから、酷い人認定されてしまったりとか。
また、自分の中にあるネガティブな感情(否定的感情)を相手の中に投げ込んで投影してしまい、相手が怒っていると思ってしまう投影同一視も起こります。そうされた相手は訳がわからないので混乱します。自分が相手に嫉妬している時に、相手が自分に嫉妬しているように感じ、「あいつは俺に嫉妬している」と公言する人をたまに見かけるかと思います。
話を戻して、「あなたは素晴らしい」と言って相手を理想化したかと思ったら、「お前なんて最低!」と言って両極端にその人への評価が振れるのは、相手を支配したいがための操作性のあらわれだと考えられています。
自分を理解し愛情で包んでくれる人と理想化してみたところで、そんな理想的な人なんてこの世にいるわけもありません。自分のニーズを満たしてくれないときに極端に低評価になってしまうのもよくありがちなこととだと思います。他人との適度な距離がとれないと、依存と敵対の狭間に生きることになります。
薬院校をやっていたとき、壁に貼っていた言葉があります。
Frederick Salomon Perls |
ゲシュタルトの祈り(フレデリック・パールズ)
私は私のために生きる。
あなたはあなたのために生きる。
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけではない。
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけではない。
私は私。あなたはあなた。
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。
私とあなたで『私たち』、二人が一緒なら世界を変えてもいける。
これらの言葉が「素敵な言葉だなあ」って感じれるかどうかなのだと思います。依存して、依存されてという関係は、実は親密な関係(健全な関係)ではありませんから。
人間同士は、本来もっともっとずっと距離があって、自分の領域を大きく後退させて狭めて、必要な時にだけ、余裕のある分で関わり合うものです。
相手と距離をとることを「敬意」といいます。距離をとったうえで相手に関心をもつことが肝要です。自他の区別=境界をしっかりととれる環境をつくることがいわゆる安全基地のあり方の基本なのではないかと思います。
相手と距離がとれず、自他の区別を越えて関わってこられたり、逆に、自分自身が自他の区別を越えて相手を侵犯してしまったりというのは問題を生じがちです。自他の境界があいまいなので、「相手がわからず屋で話が通じない」「自分が何とかしないといけない」と考えてしまいがちになります。
自他の境界があいまいになるが故の、自分の価値観の絶対化が起きたりもします。
その結果、相手は、依存するか反発するかします。
依存されると頑張って何とかしようとするし、反発されると怖くなって相手をこき下ろします。
関わるところと関わらないところの区別、自分と他人の領域の区別をつけておかないと、感情が不安定になります。
自他の境界をはっきりさせ敬意をもってお互いに尊重することができていれば、感謝の気持ちや思いやりが生まれてきます。そうしてはじめて、本当の意味での助け合いができるようになります。
自他の境界がはっきりしていないと、「相手に過剰に期待し、それに応じてくれないとイライラして腹を立てたりして、恨むようになる」というしんどい生き方を選択することになります。
12年前に「恨み(怨み)つらみ」をテーマにした出来事がありました。干支が1周まわったので「ゲシュタルトの祈り」をテーマにした素敵な出来事が起きるような気がしています。
あ、この本、おすすめです。
愛着障害の克服 岡田尊司 |