2021年11月18日木曜日

体型を改善しようとして運動しようとする人たちが挫折する中、運動するのが楽しくて仕方がない人たちの体型が改善されていくという現象。

 みんなが楽しそうに身体を動かしているとき、自分だけその動きができない……そんなとき、どんな態度をとるか? ふてくされたり、怒ったり、帰ったり……という態度を選択する人たちの体型には、独特の特徴があります。そして、その体型が変わることはほとんどありません。理由は簡単で、「現在の自分の状態でできること」「できるだけ新しい動きを習得しないですむこと」「楽に簡単にできること」しか選ばないためだと思われます。いま現在できない動き=新しい動きを習得しないということは、新しい動きに必要な変化をしないということを意味します。

 自分だけその動きができないとき、気が遠くなるような試行錯誤を繰り返すことを選択する人たちは、その動きができるような体型に変化していきます。  そして体型が変化することにより、同系列の動きはすぐにできるようになっていきます。そうなってくると、新しい動きを習得するのが容易になるため、次々に挑戦していくようになっていきます。学力もそうだと思いますが、分数とか基本的なところでつまずくと、それ以降のことが何も理解できなくなります。小学生レベルの基礎をやり直すことで学力が向上する例はたくさんあります。

 自分だけできないときに、「魔法」を探し始めるのは賢い選択ではないと思います。ラッキー(幸運)さを求めてみても、運動能力も学力も向上はしません。理屈通りにきちんとやることでしか、結果は出ない仕組みになっています。厄介なことに、自分の身体を思い通りに動かせないときほど、他人を思い通りに動かしたくなってしまうため、ますます動けなくなってしまうという展開になりがちなのだと思います。

 ごく当たり前のことですが、「これまでできなかったことができるようになる」ということは楽しいものです。自分の身体を思い通りに動かせるという喜びは、動かせなくなったときに強く実感することができます。

 練習を放棄してふてくされて、できている人たちの楽しそうな雰囲気をぶち壊そうとしてみたところで、永遠に「自分がその動きをできるようになり、思い通りに身体が動かせているという喜び」を味わうことなどできはしません。できないならできないなりに、きちんと練習をすることで、達成できたぶんだけの喜びを味わうことができます。

 私たちが体型が整っている人に好感を持ってしまうのにはさまざまな理由があると思いますが、そのひとつに「この人はコツコツ地道にやるべきことをやる人なんだな」と感じてしまうというのがあるように思います。筋力トレーニングなんかがわかりやすいですが、筋肉はそんなに簡単につくものではないので、筋肉をきっちりつけている時点で努力ができるひとだと感じるのではないかと思います。これは、作法などの繰り返しそうしないと身につかないこと全般に言えると思います。

 体型が整っている人たちはそれ相応の動きを身につけていますし、運動の絶対量を確保しています。体型が崩壊している人たちはそれ相応の動きしかできませんし、運動の絶対量がまるで足りていません。できないときにふてくされて練習を放棄してきた結果が現在の体型だということになります。体型を改善するのは簡単なことではありませんが、やりがいはすでに整っている人よりあるような気がいたします。

 子どものような表情で舞龍を操る自分の姿を観ていて、「はじめて手にした10mの道具をいきなりここまで操れるオッサンがこれまで積み重ねてきた努力の威力」を実感しました。練習を放棄してふてくされて、簡単にできることを探し求めるという選択をしなくてよかったと心から思います。