『機能的筋トレ&ストレッチング』をやります。
先日の大阪集中講座の様子です(肩関節・膝関節)。
上肢のストレッチング |
上肢のストレッチング |
ちゅう |
(*´σー`)エヘヘ |
というわけで、ほんとに地味な内容です。
地味であるがゆえ、練習を積み重ねると、動きが美しくなります。
意味がわかるのは、できるようになった瞬間です。
神経系のデバック(バグの修正)が終わると、見違えるように美しく動きます。
身体操作の基礎を学び始めると、『もうわかった感』が生じます。
これ、修正が難しいバグです。
「わかっていないことがわかっていないと、バグの修正ができない」ですから。
そして、身体操作独特のトートロジーが、『もうわかった感』を加速させてしまいます。
身体操作法は、身体操作理論で証明するほかありません。
砂鉄さんが、こんなTweetをされていました。
そもそもアートで求められているのは、正しい人間ではなく美しい人間であり、また正しいデッサンではなく美しい構図なので、そういった物を習得する意味はあまり無い— 砂鉄 (@satetu4401) 2018年12月8日
あまり無いが「教えるには何らかの正しさや基準が必要」なので、美術を教える時はそういった物を教える事しかできない
身体操作法で求められているのも、美しい人間です。
しかし、それを教えるには、機能解剖学的な正解が必要です。
なので、機能解剖学を学ばなければいけません。
そして、それがわかっているのが大前提で、本番はそこからなのです。
少し身体を動かせるようになると、盛大な勘違いが始まります。
『もうわかった感』というバグです。
バグに気がつかせる方法はいくつかあります。
いちばんわかりやすいのは、即興舞をやらせることです。
一瞬でフリーズして、身体の動きが止まったり、不審な動きとなります。
頭でイメージした物語の通りに身体が動くところまで昇華できていないからです。
連続した動作の場合、静止画はあまり美しくはありません。
動画は美しいです。
生(ライブ)で見ると、ほんとに美しいです。
もうおわかりだと思いますが、『もうわかった感』は静止画だけにこだわっています。
その静止画も、修正しまくりますが。
『もうわかった感』が恐ろしいのは、実際はできるようになっていないのに、できるようになった気がするという点です。
なんでもそうですが、途中でやめると危険です。
わかりやすいのは、依存症からの脱却時の離脱症状です。
どんな場合でもそうですが、『良くなったような気がするとき』は良くなってはいないものです。
美しさは、何年もかけてつくるものです。
水龍の舞 ひふみ |
ろくに理解できてもいないし、身体も美しくない状態での、『もうわかった感』。
そこで地道な練習をやめてしまったら、そこからのバグの嵐を止めることはできません。
ひとつ目安があります。
歌を聴くとき、歌詞を聴いているか、音楽と身体が一体になっているかです。
「~の歌がいい」というとき、「歌詞が~」って言う人の動きはバグだらけです。
バグがなければ、旋律に合わせて身体が反応しているはずです。
Navras for KAGUZUCHI からの
さすがのパフォーマンスです。
そして、これ。
次元が違う再生回数(笑)。
そして、シャンティマントラが響きます。
うちの舞部でも、近々やりたい。
もちろん即興で。
アサトーマ サッドガマヤー(真実でないものから真実へ)
タマソーマ ジョーティルガマヤ(闇から光へ)
ムリッティヨールマ(滅びゆくものから不滅のものへ)
アムリタムガマヤ(どうかわれらを導きたまえ)
話を戻して、
私は身体操作練習のときの音楽の使用はしません。
バグの修正は、自分の呼吸をベースに実行する必要があるからです。
集団力学も用いません。
地味に、淡々と、自分の課題に向き合います。
12月の東京では、デバックの解説もしたいと思います。