2024年1月7日日曜日

陽気な人は、自分の愚かさを愚かさとして受け入れています。陽気でない人は、「虚栄心(みえ)」に囚われます。「自分が期待する自分」と「実際の自分」を埋めるために。

 陽気であるということが、もっとも私たちを幸福にしてくれます。「陽気=自分に満足をしていて心が安らいでいること」であり、「自分を自分で認めることができていること」が幸福だということなのだと思います。

幸福について―人生論 (新潮文庫) 文庫 ショーペンハウアー (著)、 橋本 文夫 (翻訳)

 ショーペンハウアーは、「陽気さを持っていない人=精神的な欲求をもたない人」を「俗物」と言いました。陽気さを持たない人は肉体的な快楽を求めます。何らかの刺激自体を幸福だと勘違いしています。刺激にはすぐに慣れてしまうことになり、さらに大きな刺激を求めるようになります。麻痺するようになり、「もっと」と際限なく求め続ける人生となります。求め続けて、気がつけば麻痺してしまい心は千々に乱れて、不満足な日々を過ごすことになります。

 自分の心を見失って刺激を求め続け、自分と他者と比較しているために、どれだけ時間が経っても「陽気」はなりません。

 陽気な人は、自分自身から幸福をつくります。自分自身に満足している=自分のことを誇りに思えているので、特別な何かを持っていなくても、特別な場所に行かなくても、幸福感に満たされているのです。

 「他者に自分を認めてもらいたい(評価して欲しい)」という願望には際限がありません。「他者に認めてもらう」という刺激を求め続けることになりがちです。たまたま運良く、他者から良い評価を得ることができたときの快感が忘れることができずに、「もっと認めて欲しい」と際限なく求めてしまうことになります。

 「自分が期待する自分」と「実際の自分」を埋めるために「虚栄心(みえ)」が生まれます。虚栄心に囚われた「陽気さを持っていない人」は、自分で自分を偽って(盛って)、他人を欺くことで実際の自分よりも高い評価をしてもらおうとし続けます。仮にそれがうまくいったとして、それは盛に盛った偽りの自分でしかありません。

 周りの人たちに一瞬だけ注目されて舞い上がってしまい調子に乗ることができても、すぐに叩き落とされます。他者に良く見られたいという不安さが、さらに陽気さを奪っていきます。多くの場合、何もしないよりもかえって評価を落としてしまう結果になりがちです。

 冷静に考えてみましょう。人はそれぞれに正義があり、自己基準で価値を判断します。そして、多くの人たちは、自分が理解できることや自分と似ているものしか高く評価しません。そもそも、すべての人に高く評価をもらうことなどできはしないのです。

 陽気な人は、絶対的な尺度である「誇り」をベースに生きており、自分の愚かさを愚かさとして受け入れています。陽気でない人は、相対的な尺度でしかない「虚栄心」をベースに生きています。「もっと認められたい」という気持ちが強いために、自分の愚かさを愚かさとして認めることができません。

 人々は、目と耳はあるけど、それ以外は多くを持たず、とくに判断力はスズメの涙ほどしかなく、記憶力はほとんどない。ショーペンハウアー

 そもそも論として、ほとんどの人たちは、そんなに他者に興味はありません。興味があるのは自分のことばかりです。他人のことは記憶の片隅すらなかったりします。何とも思ってはいないのです。

 アリストテレスは、「幸福とは自分に満足できる人のもの」と言いました。

「自分自身でいるということは、自由でいられること。自分が持っているものが多ければ多いほど、その人にとって他人は重要ではなくなる。」

 幸福感を他人からの評価に求めることがなければ、評価してもらうために大きな犠牲をはらうことも、自己否定をすることも必要なくなります。

 陽気であるということが、もっとも私たちを幸福にしてくれます。「陽気=自分に満足をしていて心が安らいでいること」であり、「自分を自分で認めることができていること」が幸福だということなのだと思います。