2024年4月5日金曜日

中立的に価値を論じる批評的思考ができる人は好かれます。自分が気に入らない対象に対して、どうにかして自分の意見をねじ込んでやろうとする批判的思考の人は嫌われます。

 批評的思考とは、中立的に価値を論じることです。いま現在、そこにある問題を見つめて、原因と解決策を考えて、これからの一連の流れを導き出すことができます。対象となる人物やことがらに対して、自分が本当に興味を持てている場合には、批評的な思考が可能になります。お互いのしあわせを願っているのが相手に態度で伝わるので、談笑裡に話が進みます。

 論理の誤りや脆弱性に対して、それらを指摘し改善をしていくことで幸福感を高めることを目的としています。ともに完成度をより高めたいという願いが、そこにあります。

 これに対して、批判的思考というのは、あら探しと詮索にすぎません。自分が気に入らない対象に対して、どうにかして自分の意見をねじ込んでやろうと考えています。「私の批判は聞くべき!」という謎の自己主張をする人たちが陥っている思考です。根っこに怒りや不満が渦巻いているために、建設的な話にはなりません。

 自分の価値観でしかものごとをとらえられない人は、多角的なものの見方はできません。それは即ち、柔軟な思考ができないということを意味します。単なる粗探しできかなく、攻撃する材料を探してるだけで、生産的でも建設的でもないのです。

 粗探しばかりしている批判的思考の人は、強い劣等感を抱いています。気に入らない他人を下げることで優越感を味わうことで安心しようとします。内心では、「この人、すごい」と感じていても、自分より優れていることを認めてしまうと、自分のことがが惨めに感じられてしまうため、自分以外の他者のことを認めたくはありません。結果として、ヨイショ以外で、他者を褒めることはありません。周りにいる人たちも、ヨイショしかしません。控えめに言って地獄のような状況です。

 また、妬ましい気持ちから、他人が自分より優れているのが面白くないと感じます。自身がある人は、優れた人を見ると、素直に「いいなぁ」と認めます。自信がない人は、「あんな人のどこがいいのかわからない」と、ひねくれた反応をしてしまいます。他者の優れた点を認めずに、他者を下げる発言をして、評判を落とすことに躍起になります。

 また、「自分はすごい人アピール」に余念がありません。

 批判的思考をする人は、必要以上に自分と他人を比べる傾向があります。強烈な劣等コンプレックスを抱いているので、常に周りの人たちと自分を比べて不安感に苛まれています。ありのままの自分ではダメだと感じていて、人から認められたいという強烈な気持ちを持っています。自分が他者よりも劣っていると感じると傷つくために、過剰に防衛しようとして、さらに批判的思考を強めてしまいます。

 劣等コンプレックスが強い人は、批判して罵ることが大好きです。しかし「あなたがやってみてください」と言われると、なんだかんだと言い訳をしてやろうとはしません。自分に責任がない立場で誰かのことを非難すると、快感を得ることがいます。しかしそれは、「もしも自分がその誰かの立場になったら批判され罵られる」という恐怖感を強化することになるからです。

 無責任な立場で批判するより、自分が責任をもってお手本をやって見せるのが筋というものだと、誰しもが思うはずです。責任のない立場で文句ばかりいう老人になるのは惨めです。理不尽に説教するのが楽しいというのは、それだけ現実生活が不しあわせだと感じているということでもあるのです。

「君子は、他者の美点を自然に探し、見つけるものである」という言葉があります。優れた人は決してあら探しはせず、対象の美点をさらに高めるための洞察を繰り返すのです。

 ちなみに、現実世界では「成果を出すと批判される(あら探しの対象となる)」のが常です。小人の嫉妬心というのは強力で、「出る杭を打たずにはおれない」からです。ただ、嫉妬心からの批判というのは劣等コンプレックスがエネルギー源なので持続力がないため、ほおっておけば消えていきます。多くの場合、時間が解決してくれます。

 批判的思考の人からの罵り(否定の言い回し)を、肯定的な言い回しに変換すると「誉め言葉」になります。嫉妬から生まれてくる罵り言葉なので、ある意味では絶賛されていると考えることも可能です。自分の価値観でしかものごとをとらえられない人の意見は真に受ける必要はありません。

 人生は短いので、これからの一連の流れを一緒に導き出そうとしてくれる人たちとつながっていった方が良い展開になると思います。