2018年9月18日火曜日

愛のあるタッチが筋肉をほぐしてくれる。支配的なタッチは筋肉をこわばらせてしまう。

20180918 薬院校集中講座 トリガーポイント虚血圧迫法

3日間のトリガーポイント虚血圧迫法の講座を終えました。

あらためて「愛の技術(The Art of Loving)」の重要性を再認識しました。

愛のあるタッチができる参加者のパートナーは、みるみるうちにほぐれていきます。

愛のないタッチしかできない参加者のパートナーは、こわばっていきます。

愛がないと、相手がこわばっていくことに気がつけません。

支配的な人は、知らず知らず暴力によって筋肉を思い通りに変化させようとします。

自分が触れたことで、かえってトリガーポイントが増加・活性化していることに気がつきません。


相手に愛があるかどうかは、触れられた人は瞬時にわかります。

そして、支配的なタッチをされた後に筋肉がこわばってしまうことでダメージを受けます。

支配的な人とのパートナーワークの、致命的な欠陥です。

愛の欠如は、基本的信頼感を壊滅的レベルに破壊してしまうのです。


自らの身体を壊してしまうほどに愛のない身体操作をしている人の基準は狂っています。

狂った基準で相手に触れれば、相手の身体を壊します。

愛のあるタッチをするように指示を出しても、支配的な人はその意味がわかりません。

なので、力づくで筋肉をほぐそうとして破壊します。


相手への尊重がないこのような行為は「愛」ではなく「支配」でしかありません。なので、筋肉はこわばるばかりで、ほぐれることはありません。相手の筋肉はもちろん、自分の筋肉もです。


支配で筋肉はほぐれません。

筋肉は信頼によって覚醒し、愛によってその力を発揮するのです。


愛のない支配的なタッチは、相手の筋肉をこわばらせ、自分自身の筋肉もこわばらせます。

支配的な侵害刺激と、厳しくも受容的な愛の刺激は、まったく逆の結果をもたらすのです。


愛のあるタッチとは何かを理解したいなら、フロム先生のこの本がおすすめです。

愛するということ 新訳版  エーリッヒ・フロム (著), Erich Fromm (原著), 鈴木 晶 (翻訳) 


エーリッヒ・フロム先生の愛の技術とは、相手をしあわせにしたいと思うことそのものです。

それは、相手を成長させる覚悟を決めることです。

たとえ「自分がどう思われようと」も、相手の成長を願うのです。

自分が認められたくて(好かれたくて)相手に何かをするのは愛ではありません。

自分が嫌われてでも成長を願うのが愛です。

お互いがそうやって高め合い、関係性も深くなっていくのが本来のパートナーワークです。

自分を特別な存在として承認して欲しいなんていうのは、愛でも何でもありません。

ナルシシズムや依存心を克服しないと、愛のあるタッチをすることはできないのです。


相手に、自分の考えを押し付けたり、束縛したいと思うのは、自分と相手を全く同じにしたい、同一化したいという想いからです。

相手への尊重がないこのような行為は「愛」ではなく「支配」です。

「愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづけるという、パラドックスが起きる」エーリッヒ・フロム

これが、パートナーワークの基本です。

154Pより

二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意志を通じあうとき、すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる。この「中心における経験」のなかにしか、人間の現実はない。人間の生はそこにしかなく、したがって愛の基盤もそこにしかない。そうした経験にもとづく愛は、たえまない挑戦である。それは安らぎの場ではなく、活動であり、成長であり、共同作業である。調和があるのか対立があるのか、喜びがあるか悲しみがあるかなどといったことは、根本的な事実に比べたら取るに足らない問題だ。根本的な事実とはすなわち、二人の人間がそれぞれのその本質において自分自身を経験し、自分自身から逃避するのではなく、自分自身と一体化することによって、相手と一体化するということである。愛があることを証明するものはただ一つ、すなわち二人の結びつきの深さ、それぞれの生命力と強さである。これが実ったところにのみ、愛が生まれる。

引用ここまで

愛があることを証明するものはただ一つ、すなわち二人の結びつきの深さそれぞれの生命力と強さである

大切なことなので、2回引用しました。

フロム先生に学ぶボディワークの極意とは、

二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意志を通じあう

です。


それが、「愛のあるタッチ」の本質です。


触れることによる筋ほぐしは、テクニックの問題というよりは愛の問題なのです。


愛する能力がある人のタッチは、筋肉をほぐします。

愛する能力のない人の支配的なタッチは、筋肉をこわばらせます。


フロムは、愛の基本要素は尊敬と知であると言います。

尊敬とは、相手がかけがえのない存在であることを知る能力です。

そのために相手を知らなければならない

その土台として、相手に依存しない、一人でもいられるための集中力が必要としています。


人が人に愛を与えるためには、自分が十分に満たされていることが必要です。自分自身の心が満たされていなければ、他人に愛を与えることもできません。

で、フロム先生はこう言います。

母親への愛着から父親への愛着へと変わり、最後には双方が統合されるというこの発達こそ、精神の健康の基盤であり、成熟の達成である。神経症の基本原因は、この発達がうまくいかないことである。

なんですよ。

「厳しくすること」「自分や他者を規律すること」という父性的な愛の要素は、「ただありのままで愛されるのだ」という無条件の母性愛の土壌が豊かな環境のもとでなければ、健全に育ちはしません。

ここが、支配的なタッチと、愛のある厳しいタッチの違いなのです。

が、ただあるがままで愛されてこなかった人には、この違いがわかりません。


昨日の講座後の「ひがみ根性」の解説で話しましたが、「子どもにとって母性愛の重要性は、父性愛とは比べ物にならないほど大きい(フロム)」のです。

これは、大人も同じです。

 母親の愛はその本質からして無条件である。母親が赤ん坊を愛するのは、それが彼女の子どもだからであって、その子が特定の条件をみたしているとか、ある特定の期待にこたえているからではない。
 父親との関係は、これとはまったく異なる。母親は私たちが生まれた家である。自然であり、大地であり、大洋だ。

フロム先生のこの解説が好きです。

母親が赤ん坊を愛するのは、それが彼女の子どもだからであって、その子が特定の条件をみたしているとか、ある特定の期待にこたえているからではない。

好きな言葉なので、2回引用しました。


父親の愛は、努力で手にすることができます。

条件さえ満たせばいいわけですから。

しかし、母親の愛はそうはいきません。

もし得られないとなると、どんなことをしても得ることができません。

無条件の愛ですから。

基本的安心感を根本的に破壊し尽くすのは、母親の愛の欠如なのです。


フロム先生の「愛の技術」を読んでいると、母親の偉大さを痛感します。


と、ここまで書いていて思いました。

「ただありのままで愛された」という経験をするのが、パートナーワークの本質ですね。

愛のある母親のようなタッチこそが、破壊された基本的安心感を再構築してくれるのです。

満たされた愛着が、筋肉の構造を本来あるべき状態に戻してくれるということです。


11月3・4日の「筋膜リリーステクニック」薬院校集中講座に向け、このあたりのことをもっとまとめていこうと思います。