10月の各地の講座は、ヨガべーシックと手首の使い方(全身の運動連鎖)をやります。地味ですが、とても大切な内容です。左右の足への荷重移動など、たくさんの要素を含みます。よつんばいで手首が痛い場合や支える力が入らないのは、手首の使い方に問題があることが多いものです。
KANON塾生講座での手首の使い方解説です。棒をまわすことで、自分の動きの何がダメなのかを知ることができます。
10月の各地の講座は、ヨガべーシックと手首の使い方(全身の運動連鎖)をやります。地味ですが、とても大切な内容です。左右の足への荷重移動など、たくさんの要素を含みます。よつんばいで手首が痛い場合や支える力が入らないのは、手首の使い方に問題があることが多いものです。
KANON塾生講座での手首の使い方解説です。棒をまわすことで、自分の動きの何がダメなのかを知ることができます。
コロナ禍以降も、安部塾東京校「IBUKI」での身体操作講座を継続してまいりましたが、来年度の更新はしないことにいたしました。11月21日(日)の講座をもちまして、閉校いたします。今後は、都度ごとに会場を借りての開催となります。閉校式を予定しておりますので、足が遠のいてしまった方も、IBUKIとのお別れに参加していただければと思います。
10月8・9・10日(金・土・日)の東京集中講座は、原点に還ってヨガをやります。12年前、東京で教え始めた頃を振り返りつつ、永遠の初心者クラスを深めてまいりたいと思います。闇雲に柔軟性を追及したりとか、曲芸に走ったりとかはせず、正確なアライメント(整列)に基づく姿勢の保持を見つめ直します。2013年頃は、コアな参加者しかいませんでした(笑)。いまも続いているのがすごいと思います。
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2013年9月 東京ヨガ講座(中目黒?) |
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2013年9月 東京ヨガ講座(吉祥寺) |
7年ほど前、各地をさまよって動き方を教えていた流浪の民だった私が身体操作の塾を始めることになり、福岡の薬院と東京に安部塾を開校しました。その後、薬院校から新宮校に移転し、今回は東京校が閉校となります。時の流れははやいものです。あっという間ですね。コロナ禍以降は、教えることよりも自身の修練に励んでおりますが、その成果を役立てることができる日は、まだずっと先になりそうです。
世阿弥のことば、「初心忘るべからず」があります。「初心」とは、新しい事態に直面した時の対処方法=試練を乗り越えていく考え方を意味し、どうやってそれをを乗り越えていったのか、という経験を忘れてはならないということだそうです。
「老後の初心忘るべからず」ということばもあり、老いたなら老いにあった芸風を身につけることが「老後の初心」であるとされます。老いても、はじめて遭遇し、対応しなければならない試練がやってきます。その都度、はじめて習うということをやっていかねばならず、これを「老後の初心」というそうです。経験したことがないことに対して、自分の未熟さを認め、新しい事態に立ち向かっていく心構えをもたなければならないと思います。失敗を身につけていかなくてはなりません。
12月以降は、新宮校を本拠地とした地味な活動に励んでまいります。各地域を流浪しながら、身体操作の楽しさを伝えていければなと考えております。アフターコロナまで数年はかかりそうなので、具体的にどうなるかはまったくの未知数ですが、これまで以上に「正確な基本動作の反復練習=地味練」をきちんと継続していきたいと思います。
ハンマー(かなづち)で釘を打つ動作をイメージしてみましょう。
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手首の使い方 |
うまく打てる人は、手首を柔らかくしなやかに使います。うまく打てない人は、手首を固めて使い、肘から先を上下に動かして打とうとします。
手首を支点にしてハンマーを使うと、てこの原理でヘッドスピードが増し、正確に強く釘を打てます。見た目は軽く打っている様に見えます。良い姿勢で身体の左右のバランスも良く軸があり、なめらかな動きです。フォロースルーまでも正しい軌道となっています。安全に、真っ直ぐにくぎを打つことができます。
手首を固めて支点にせずにハンマーを使うと、力みが生じます。タイミングが狂い、リズムにのれません。いわゆる「手打ち」の状態となります。姿勢が悪くバランスが崩れ軸もなく、ぎくしゃくした動きです。すべてが間違った軌道となります。釘を持った手を叩いてしまったり、釘が曲がってしまったりします。
各地の講座で「手首の使い方」の解説をします。御参加、お待ちしております。
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手のアーチ(手弓) |
てのひらを上に向けた状態を「あけ」、てのひらを下に向けた状態を「ふせ」といいます。手のひらを上に向けて力を抜くと、母指と小指が向き合って手根部が丸くくぼみ、手首アーチができるはずです。この状態であれば、血流や神経のはたらきがじゅうぶんに確保できます。
手根にくぼみができていない状態=手首アーチが崩れていると、血流や神経のはたらきが障碍されます。
手のアーチ機能は首・肩の機能と関連が強いため、手のアーチ機能が低下することで首・肩の機能も低下することがあります。この場合、手のアーチ機能を改善することで、首・肩の機能も改善することがあります。
明日からの東京集中講座と、各地の講座で「手のアーチの機能改善」の解説をします。御参加、お待ちしております。
今月の各地での講座で「小指の使い方」を解説してまいります。最近の身体操作界での定番ネタですが、安部塾での小指の使い方の考え方もそれなりに面白いと思います。有料オンライン塾生講座で公開しているので、オンライン塾生さんはチェックされてください。
基本的な小指の使い方のひとつは「小指を折り込む」というものです。小指に力が入ると、腹横筋下部繊維・骨盤底筋群(≒丹田)やハムストリングス≒腿裏にも力が入り、腰が安定し、脚を振り出しやすくなります。ピラティスやヨガで、小指の使い方をやかましく指摘されるのはこのためです。筋トレのサムレスグリップなんかもそうですね。
日本の伝統的な構えの手である「わし手(ワシのくちばしの形)」が体感しやすいと思いますが、こうすると上腕三頭筋(二の腕)が締まります。
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小指の使い方(わし手) |
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刀剣を握る・つまむ |
身体の動きが悪い・きたない人の股関節・肩関節の使い方を観察してみると、潰したり、詰まらせたりして動いているのがすぐにわかると思います。脊柱の伸長と荷重移動ができていないこととが主たる原因であることが多いと思いますが、股関節窩(か)・肩関節窩に大腿骨頭・上腕骨頭を引き込むような過剰緊張状態があるはずです。
結果として、骨頭が関節窩の正規の位置から外れて動くこととなります。当たり前のことですが、本来の位置に骨頭がないということは、本来の機能を発揮することができなくなり=正しく動くことができなくなり、身体全体の動きのコーディネーション(適切に組み合わせること)ができなくなってしまいます。
コーディネーションができていない動きは円滑さ(スムーズさ)がありません。ギクシャク(間がきしんで、なめらかに動かないさま。)した動きとなり、姿勢の制御に脳神経系のリソースをとられる結果、さまざまな処理能力の低下をきたし過緊張状態を悪化させることになります。詳細は、松尾佳世子さんのこの記事をお読みください。
→ 常に脳は、体の安定性を優先させたい。より抜粋引用
ヒトの体は、「物事を認知する」ことよりも「姿勢のバランスを保つ」方を優先させる。歩きながら会話したり、お昼何を食べようかなと考えたりすることはそんなに難しいわけではないと思います。それがもし、安全装置無しで綱渡りしながらだとどうでしょう?
会話する余裕もなければ、考える暇もなくなると思います。
最終的に脳は、認知機能よりも身体的機能を優先させるようになる。しつこいが、常に脳は、体の安定性を優先させたい。だから、姿勢の制御で脳が手一杯のときはいろいろと考えるとか理解するといったことは後回しにされる。
つまり、体がうまく動けなくなればなるほど、相手の話の内容が理解できなかったり、外の世界の状況や環境が把握出来なくなる確率が上がってくる。空気読めず、変な態度とったり、言わなくていいことを言ってしまったり。気まずい雰囲気になっても、認知機能が低下していると気づくのは難しい。
引用ここまで
動きがきたない人が対人関係でやらかすことが多いのは、姿勢の制御でいっぱいいっぱいになってしまう結果であることが多いという推測が成り立つと思います。実際、股関節や肩関節がぴったりとハマって全身のコーディネーションができている動きが綺麗な人は、打てば響く(働きかけるとすぐに反応する。)ものです。動きがきたない人は、まわりの状況にまるで気がついていないことすらあります。
8月28日(土)の神戸集中講座、8月29日(日)の新宮校集中講座、9月4日(土)の下関集中講座、9月10・11・12日(金・土・日)の東京集中講座で詳しく解説いたします。緊急事態宣言下での開催となりますので、安全な対人距離をとり、感染予防対策いたします。御参加、お待ちしております。
「自己肯定感」という言葉がブームになって、かなりの時間が経過しました。自己肯定感は、「自分のあり方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する語。 自己否定の感情と対をなす感情」とされています。
「自己肯定感が高い状態」というのは、「自分に対しても、相手に対しても、世界にたしても、肯定=OKを出している状態」です。なので、自己肯定感が高い人は、正当な理由なく相手を否定したり、世界を非難したりしません。他者を否定している状態にある人たちは、「自分以外の誰かを変えようとしたり、支配・操作(コントロール)しようとしたり、マウントをとろうとしたり(優位に立とうとしたり)したがります。求められてもいないアドバイスしたがったり、誰かを変えようとしている人の自己肯定感はボトムラインだと私は考えております。
よくある勘違いに、地道な努力で変えられる部分を変えようとしないというのがあります。変えれることを変えない人の自己肯定感が高くはなることはありません。ダメな自分が嫌いなのに、そんな自分を好きになろうとするとか、そういった努力次第で変えられる自分の嫌いな部分を変えないままで、自分を肯定しようとする人をよくお見かけいたします。ただの現実逃避に過ぎませんし、単に面倒くさいことをしたくないだけです。
自分のことが嫌いだった人が、地道な努力を積み重ねることで結果を出して自信をつけて自分のことを好きになるという展開が王道だと思います。努力次第で変えられる自分のダメな部分を変えようとせず自己肯定感を高めたいとか土台が無理な話だと思います。そして、やらなければならないことをやるために、しなければならないことがあります。そう。自分は何ができて何ができない人間なのかという、「身のほど・分際を知る」ということです。
自己肯定感を高めるために私がおすすめしているのは、「諦めなければならないことを諦める」ということです。自分ができないこと=不得意なことを認めて受けいれるということです。これができれば、やらかしをしてしまうことがなくなります。できもしないのに謎の自信をもってステージにあがったらどうなるかは、実際にやらかしている人たちを観察すれば秒でわかります。努力で変えられないほど才能がないのが誰の目にも明らかであるのに、その努力もしないでステージにあがりボロカスに酷評されている姿は、自己肯定感を勘違いした人の末路だなと感じております。さすがに下火になってきましたが、自分の容姿を肯定的に勘違いして自撮りをSNS上に拡散する人たちもいます。これも、ほんとに容姿端麗眉目秀麗であればいいのですが、そうでなければテロ行為と認識されていることが多いようです。
できていないこと自体は良くも悪くもありません。問題は、できていないことを認めていないという点です。できていない自分を自覚し懸命に努力してステージにあがっていればそれほどひどい目にはあわないでしょうし、支援者もあらわれると思います。見た目がよくないと自覚してSNS上に自分をさらす行為にも、それほど悪意は向かわないような気がいたします。私は最近、拙い粘土細工の舞面をSNS上にアップさせていただいておりますが、ダメな作品だという自覚があるため、怒られが生じずに済んでおります。
おそらく、自己肯定感を勘違いすると、「私は特別な存在」という得意満面な状態に陥ってしまうのだと思います。無意識に相手を見下したような態度をとってしまうため、相手の反感を買うことになります。「私はすごい人」という盛大な勘違いにより、まわりの人たちを肯定しないというNG行為に及んでしまうことになり、破綻してしまうという展開になりがちです。他の人にできないことができるという能力は、他の人を楽しませるために使うものであり、決して自慢するために使うものではありません。まして、能力的にたいしたことがないのであれば、「見苦しいものをお見せして申し訳ありません」というくらいの気持ちでないと、怒られが発生するように思います。
なぜだか、やらかす人たちはみな謎の自信に満ちていたりします。妄想の中では、自分が世に出れば注目され絶賛されると感じているからです。妄想は妄想でしかありませんので、現実化することはありません。現実化するのは、ろくに努力をしていないのが誰の目にも明らかなため、まったく評価されないという状況です。妄想に耽っている怠惰な思考に基づく言動による結果が現実化するのであって、妄想が妄想のままに現実化するわけではないのです。
繰り返しになりますが、自己肯定感が高い人は、正当な理由なく相手を否定したり、世界を非難したりしません。他者を否定している状態にある人たちは、「自分以外の誰かを変えようとしたり、支配・操作(コントロール)しようとしたり、マウントをとろうとしたり(優位に立とうとしたり)したがります。このことを知っていれば、後者の人たちがいかによろしくない状態に陥っているかが判別できると思います。