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新たな感染者数 |
ここのところ、自らの感染予防及びに感染拡大対策のために、ステイホームしております。
加藤諦三先生の言葉
「寂しい人は、注目を引くためにさまざまな問題を起こします。」
「不安な人ほど思い込みが激しいです。」
「人間は自分の存在に意味を感じなくなると、衝動の罠に落ち込んでいきます。」
「人間は自分の存在に意味を感じなくなると、衝動の罠に落ち込んでいきます。」
「自分に対する他人の態度がおかしい時は、「なんでかなあ」と考えてください。あなたがおかしいのかもしれませんから。」
「不安な気持ちに負けていると、いつまでも不幸と別れることはできません。」
神経症者の要求の特徴4より
自分がしたいことをして、結果として「恵まれた人生」になった人と、皆が「わー、凄い」と言うことをして、恵まれた人生になった人では、同じように社会的経済的には恵まれていても幸福感は全く違う。皆が「わー、凄い」と言うことをして成功した人は、端から見て恵まれていても、生きるのが辛い。
「理想の自分」とは要するに、皆から「わー、すごい」と賞賛されるような人間である。もちろん心理的に健康な人も皆から「わー、すごい」と賞賛されたい。しかしそれはあくまで自分が好きなこと、自分の適性にかなったことで成功して褒められたいということで、神経症者の様に自分の適性と関係なく、褒められたいとは思わない。
神経症型の人は現実の自分の実力、能力を無視して、何としても理想の自分になろうとする。
神経症者は失敗を受け入れることが出来ない。受け入れることが出来ないとは、失敗すると失敗を嘆いてばかり居ると言うことである。心理的に健康な人は自分のしたいことをして失敗するから、失敗してもしたことに対する満足はある。失敗に対する態度でその人の神経症の程度は分かる。神経症者は自分を大切にした生き方をしていないから、失敗したら後悔だけの人生である。
そして成功しても幸せになれない人である。なぜなら何事も自分の意志でしているのでないから。成功しても達成感、満足感がない。
なぜ思惑がはずれたかを反省していない。相手を見ていないから努力が生きてこない。相手が何を望んでいるかを考えない。自分の世界観だけで努力する。だから「こうなる」と思ってしたことが、「こうならない」。
なぜなのだろうと考えないで、「もっと」同じことをする。さらに努力をする。
神経症者は相手を見ていない。相手を理解していない。ではなぜ人を好きになるのか?なぜ人を嫌いになるのか?それは相手が自分の何かを誉めてくれた、自分のコンプレックスを癒す一言を言ってくれたからである。その一言で好きになる。逆に自分のコンプレックスの部分を逆撫でする一言を言い、傷つけたから嫌いになる。神経症型の人は相手がなんでそれを言ったかも考えない。
神経症者には、見返してやりたいと言う復讐的な気持ちが最初にあるから、現実の自分には不可能としか考えられない様な大成功を求める。見返すために必要な成功、それが自分に対する非現実的な期待である。もともと無理なことを望んでいるのだから出来るわけがない。そしてそれができないから悩んでいる。現実の自分を無視してしまうのはまず見返してやりたいと言う復讐的な気持ちが無意識の領域で先行するからである。
例え望むだけの成功をして見返したと思っても、その時点での屈辱感を癒すものでしかない。その成功は長い人生の収穫になるものではない。自分のコンプレックスを処理しておかなければ、またすぐに惨めになる。
自分は自分であるということのどうしようもない事実を喜んで受け入れることが出来るか出来ないかに、神経症と心理的に健康な人との分かれ目がある。「見返してやりたい」と努力する人は神経症。自分の価値を信じて努力する人は心理的に健康な人。
自分を受け入れられるようになってみると、自分を受け入れないのは太陽が東から昇ることを受け入れないのと同じくらい滑稽に感じる。つまり神経症型の人は実際の自分の能力を受け入れられないというよりこの世の現実を受け入れられないのである。
何事においても生き方を間違える人は、地に足のついたことをしないで派手なことをしたがる。人生でつまずいて立ち上がれない人はまず日常の生活をきちんとしていない。生き方を間違える人は今現在を大切に生きていない。人生を間違える人は毎日毎日することをきちんとしていない。
とにかく自分の身になることを毎日続けなさい。どんなことでも毎日続けることは大変なことである。そのくじけそうになる気持ちを持続させることが、達成感を生んでくる。神経症的傾向を直したいと思えば、まず日常の生活態度をきちんとすることである。日常のことをきちんとする。毎日の積み重ねのなかで何かを感じる。例えば一年続ける。するとそこに達成感が生まれる。そして「こんな小さなことでもこんな気持ちがいいのだからもっとして見よう」と言う気持ちになるだろう。
引用ここまで(リンク先で全文を読んでみてください)
行動原理が復讐=見返したい=怨念(うらみに思う気持ち)だと、だいたいうまくはいかないと思います。自分の適性に合わないことを選びがちだからです。これに対して、好きでやっていること=自分の適性に合っていることは続けることができます。期待に応えようとして自分の適性に合わないことをやっても、たいしてうまくはいきません。自分の適性に合ったことであれば、それなりにうまくいきます。
日常生活をきちんとしている人は、生き方を間違えにくくなります。毎日毎日することをきちんとしているわけですから、そのぶんだけ勘違いをしにくくなるということです。日常生活をきちんとしていない人ほど、魔法のような開運法を探し求めがちですが、すべて役に立ちません。スタート地点から勘違いの連続なので、ずっと間違い続けることになります。
よくある勘違いに、「ステージにあがりさえすれば、きっと賞賛される」というものがあります。実際に起きるのは、「日常生活をきちんとしていないという積み重ねが姿勢と動きと呼吸にあらわれて酷評される」という現象です。ステージ上では、普段やっていることしかできません。ひとりよがりな人は、ステージ上で文字通り「ひとり」となってしまいます。奇跡は起きません。
適性がないことを、あると勘違いして行動すると、現実の壁が立ちふさがります。そこで現実を受けいれるか、受けいれないかという選択をすることになります。私は、すぐに現実を受けいれるようにしています。加藤先生の「実際の自分の能力を受け入れられないというよりこの世の現実を受け入れられないのである。」という言葉が脳裏をよぎるからです。
適性のひとつに、「容姿(すがたかたち。顔だちと体つき。容貌風姿。)」があります。現実問題、容姿の良し悪しというのは大きな影響があります。先天的なものであれ後天的なものであれ、見た目の良し悪しでその後の展開は大きく変わることになります。ルッキズム(外見にもとづく差別)は批判されますが、現実世界からルッキズムが消えることはおそらくないのではないかと思います。もちろん、見た目を気にしない人たちはたくさんいますので、その世界で生きていくのが楽でいいかと思います。
■真の花(まことのはな)
能で、鍛練と工夫の末に得た、芸の真実の面白さ。永久不変の舞台上の芸のうまさ。
■時分の花(じぶんのはな)
能で、年齢の若さによって現れる、芸以前の一時的な面白さ。
時分の花は、40を過ぎれば失われていきます。それ以降は真の花を咲かせていかねばならないように思います。日常生活をきちんとやることで永久不変の魅力というものが生まれてくるように思います。
「何事においても生き方を間違える人は、地に足のついたことをしないで派手なことをしたがる。人生でつまずいて立ち上がれない人はまず日常の生活をきちんとしていない。」という加藤先生の言葉を心に刻み、ステイホームに励みたいと思います。