解説用の画像をつくり始めました。
呼吸の観察 下位肋骨 |
呼吸の動きはわずかなので、なかなか難しいものがあります。
呼吸の観察 下位肋骨 |
コロナ禍以降、呼吸についての研究を積み重ねてきました。現時点で、呼吸の改善は、さまざまな問題の解消につながると感じております。リアルレッスンに加え、理解を深める画像づくりをしていきたいと思います。
疲れやすい人たちのお話を伺ってみると、血流が悪くむくみやすいということが多いです。代謝が悪く臓器の働きもよくないようです。呼吸が浅いことで、酸素と二酸化炭素のガス交換効率が悪化しているように見えます。呼吸が浅いとストレスに弱くなり、不安を感じやすくなり心身の不調に悩まされるようになるようです。
呼吸をするとき、肺がはいっている肋骨の籠(かご)である胸郭の周りにある呼吸筋が収縮します。呼吸筋は姿勢保持筋の機能低下による姿勢維持機能の崩壊や加齢によって硬くなる傾向があります。深くゆったりした呼吸をするためには、やわらかさを取り戻す必要があります。
安部塾では、吸う筋肉の機能改善のためには背筋を伸ばすというスタンスをとります。鼻からゆっくりと息を吸いながら腰から背中にかけて丸めて伸ばしていきます。吸いきったら、口からゆっくりと吐きながら元の姿勢に戻ります。
吐く筋肉の機能改善のためには、胸壁(きょうへき)を伸ばすというスタンスをとります。鼻からゆっくりと息を吸い、吸いきったら、口からゆっくり吐きながら、両手を後ろへ、そして下へ伸ばしていきます。吐ききったら、ゆっくりと吸いながら元の姿勢に戻ります。
呼吸の改善 |
横隔膜と肺 |
横隔膜と心臓と肺 |
胸骨の動き(吐く) |
安部塾HPバナー 2020/09/28 |
昨日、鞍手の八剱神社にお参りさせていただきました。
修理固成(つくりかためなせ) |
大蛇面 |
どうにもならないことをどうにかしようとすると、苦しむことになります。相手を変えようとすることは、どうにもならないことの最右翼ではないかと思います。元知人が狂っていっているのは、相手を変えようとする救済者妄想に浸り、自己陶酔しているからだという気がしております。
どうにもならないことは放っておくしかおりません。変わらないものは変えられないわけですから、無理矢理変えようとしない……放っておくしかありません。
相手を変えようとすれば、相手が変わらないことに心が乱れ、ストレスでイライラすることになります。放っておくことができれば、心がざわつくことがありません。相手を変えようとしないというスタンスを堅持することによって、人間関係が簡素化されてスッキリしていきます。
相手を変えようとする人は、自分に失望しているのかもしれません。「できなさすぎてストレス」というのは、相手を変えようとする人の特徴とされます。自分に失望しているがゆえに基礎の積み重ねをしませんし、簡単にできることしかしないことで、さらに自分に失望してしまいます。そうなると、相手を変えようとすることにのめり込み、狂っていくのだと思います。
私は最近、人は変わるのではなく磨かれていくのだと感じるようになりました。砂鉄が製鉄されて玉鋼に、玉鋼が鍛練されて刀剣に、刀剣が磨かれて美術品になっていくようなイメージです。変わろうとするのではなく、鍛えられて磨かれることで美しくなっていくのだと思うのです。
「私にはあなたの苦しみがわかる力がある。あなたを救う力がある」という盛大な勘違いは、鍛練と研磨から逃げ続けて自分に失望して闇に堕ちた人間ゆえの所業だと思います。自分語りと自撮りを繰り返してみたところで、鍛えられることも磨かれることもありません。錆びて腐ってしまうだけです。
今月から展開している中心軸鍛練は、ある程度まで進んだら中心軸研磨になるのだなと気づきました。
ただひたすら地道に叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて……鍛えあげた先に磨きあげの段階が待っています。
11月の奥出雲への旅が楽しみです。
ストレス耐性が強そうな人を見ると、実は「メンタルが強い」というよりは、「自分のメンタルに害を与えそうな人と距離を取るのがうまい」ということに気づく。
— 外科医けいゆう/山本健人(Takehito Yamamoto) (@keiyou30) September 20, 2020
メンタルの強さそのものに大差はなくても、ダメージを予見し回避できれば消耗しにくい。
なお、自分はあまり上手くない。
こちらの記事がわかりやすいかと思います。
この人を変えようと思うことが何を意味しているのかと言いますと、現在のその人のありようを否定して、あなたが「普通だ」、あるいはあなたが自分で「正しい」と思っている価値観を、むりやり相手に押しつけることなのです。これはつまり、あなたの価値観だけが正しくて、他の人もすべてあなたの価値観に従うべきだというメッセージであり、他人の価値観に対する帝国主義的な侵略行為でもあるのです。
あなたが自分で「普通」だと思っている価値観や人生観を押しつけようとすれば、境界例の人は、あなたと同じように、このような侵略行為に対して拒絶反応を示すことでしょう。これは、人間として正常な反応なのです。そして、あなたが「この人を変えよう」と思えば思うほど、二人の間にはさまざまな争いが発生することとなり、あなたはますます激しい精神的な消耗を味わうことになるのです。
なまじ「この人を変えよう」などと思って、自分の思い通りに操ろうとするからこそ、不要なトラブルが発生して、お互いに消耗することになるのです。ですから、このような状態を回避するためには、この人はこういう人なんだ、この人はもう変わらないんだ、一生このままなんだと割り切ることで、そこから、ではこういう人に対して効果的に対応するにはどうしたらいいのだろうかというさまざまな工夫が生まれてくるのです。これが境界例の人と付き合っていく上での、最初に必要なことであり、これがすべての第一歩となるのです。
この人を変えようと思うのではなくて、あなた自身が変わればいいというのは、あなた自身がこういう工夫をすればいいということなのです。あなたが他人を変えようとするから、いろいろな争いが発生して、お互いに消耗したりするのです。他人というのはあなたの操り人形ではないのです。あなたの思い通りに動いてくれるはずがないのです。私の気持ちを理解してくれないとか、あれをしてくれない、これをしてくれないと嘆いたり、腹を立てたりしても、境界例の人が「×××をしてくれない」のは当然のことなので。それは、他人だからなのです。あなたの延長のような存在ではなくて、あなたとは別個の存在だからなのです。ですから、こういう人に対応するには、こういう人なんだと割り切って、じゃこういう人に対してどう対応したらいいのだろうかと工夫をしてみればいいのです。つまり、他人を変えるのではなくて、あなた自身が態度を変えるのです。そうすることで、状況が変わってくるのです。
境界例の人と接したときに、反感を抱きながら「この人を変えよう」と思う場合もありますが、最初のうちは共感的な態度で、この人を何とかして救うことはできないだろうかと思う場合もあります。そして、救済者を演ずるという幻想を掻き立てられて、救いの手をさしのべるのですが、境界例の人にさんざん振り回されることとなり、やがて疲れ果てて反感を持つようになったりすることがあります。このような現象は、ただ単に境界例の人に問題があるというだけではなくて、あなた自身の心の中になんらかの隙があり、それが境界例の人と接したときに、救済者幻想という形で現われたりするのです。
余計なお世話を焼くタイプというのは、自分の問題よりも他人の抱えている問題となると、俄然と熱心になる傾向があります。しかも、境界例の人の抱えている問題というのは、非常に華々しい症状を伴うことがありますので、ますます世話を焼きたくなったりするのです。たとえば、手首を切って血だらけになったり、薬を一気飲みして自殺未遂をしたりと、破滅的ではありますが、同時に強烈なドラマ性も持っていたりしますので、そういう人を見かけると、ますます世話を焼きたくなって、じっとしていられなくなるのです。そして、「私は救済者なのだ」という重々しい使命感に燃えて、まるで映画やテレビドラマの重要な登場人物にでもなったかのような気持ちで行動してしまうのです。
自他の区別の混乱というのは、相手の人の中に自分自身の姿を見てしまうことによるものなのです。目の前にいる困っている人の姿と、見捨てられた自分自身の惨めな姿とをダブらせて同一視してしまうのです。そして、まるで鏡に映った自分自身と接するようにして他人と接してしまうので、自分と他人の区別が混乱してしまうのです。それだけではなくて、鏡に映し出された自分自身を救い出そうとしますので、これが他人にとっては余計なお世話となるのです。
このような自分と他人の混乱がさらにひどくなるとどうなるかと言いますと、他人の意向を無視してでも、強引に自分勝手な救済劇を演じようとするのです。自分の生活を犠牲にしてでも、他人の世話ばかり焼こうとするのですが、それが余計なお世話であるが故に、他人からは嫌がられます。そして、このような他人からの冷たい反応に対して、「私がこんなに尽くしてやっているのに、なぜ誰も私に感謝しないのか。みんな、自分のことしか考えていないのか」と、怒りを覚えたりします。もしも、あなたに思い当たる事があるとしたら、あなたは、自分と他人の区別が非常に混乱していると言えるでしょう。
救済者の人は、最初のうちは救済者としての幻想に自己陶酔していたりするのですが、そのうちにいらだちを覚えるようになってきます。せっかく救いの手をさしのべてやっているのに、それが自分の思い描いたシナリオ通りに展開しないことに腹立たしい気持ちになってくるのです。反対に、境界例の人も、自分の思うようにしがみつかせてくれない救済者に対して、強い不信感を抱くようになります。そして、救済者を極悪非道の悪人呼ばわりしたりするのです。しかし、何かの拍子に、しがみつきが満たされたりしますと、突然手のひらを返したように、救済者を天使のような人だと言ったりするのです。救済者の方も、悪態をついたりする相手に憎しみを覚えたり、そうかと思うと、突然自尊心をくすぐられるような事を言われたりして、ご満悦な気分になったりと、まるでジェットコースターにでも乗っているかのような変化に富んだ関係を体験することになります。もしも、両者の思惑が適度にバランスのとれた状態であれば、このような不安定な状態が安定的に継続するという、いわゆるボーダーライン・カップル状態になるわけです。しかし、ボーダーライン・カップル状態になる以前に、関係が破綻してしまうケースも多いのではないかと思います。いずれにせよ、このような強烈なドラマ性を持った関係は、存在感が希薄な人にとっては、精神的な依存を形成するのです。つまり、ドラマ性のあるトラブルが連続して発生するという状態に、一種の精神的な中毒状態(トラブル・ジャンキー)となり、自分でも無意識的にトラブルを誘発するのです。そして、トラブルという嵐の中にいるうちは、相手をしてくれる人がいて、空虚感を埋めてくれるのです。そして、救済者の人も、このようなトラブルの中に長時間いるうちに、いつの間にか「境界例もどき」とでも言った状態になるのです。
自己愛性人格障害の傾向を持った人の場合も、注意が必要です。こういうタイプの人は、自分の歪んだ自己愛を満たすために、弱者を利用しようとします。誇大に膨らませた救済者というイメージを演じようとするのです。そして、その輝かしいイメージを演ずるために弱者を必要とするのですが、あくまでも本来の目的は、栄光に満ちた誇大なイメージを演ずることにありますので、弱者はそのための単なる道具として扱われます。このようなタイプの人は、救済者というイメージを演じられなくなると、とたんに手のひらを返したように冷淡となり、まるで気に入らなくなったオモチャを捨てるかのようにして、弱者を簡単に見捨ててしまうのです。
境界例の人は、特に自我がもろい構造になっていますので、下手に心をいじると、逆に症状が悪化してしまい、自分の手には負えなくなって、結局最後には見捨ててしまうことになるのです。しかも、救済者という幻想に取りつかれていると、「症状が良くならないのは本人が悪いからだ」などと、責任を全部相手に押しつけてしまったりするのです。自分のやった無謀な「治療?」行為をすべて棚に上げて、「自分は『正しい』治療をしてやっているのに、救いようのないやつだ」などと言って、境界例の人を見捨てしまうのです。このようなことは、境界例の人をさらに悲惨な状態に追いやることになりますので、自分勝手にセラピストを演ずるのはやめてください。
自分の能力も省みずにセラピストの役を演じて、困っている人を救済しようと試みるのです。そして、まるで神にでもなったかのような全能感を味わおうとするのです。このような全能感が、空虚でみすぼらしい自分自身の現実を覆い隠してくれるからです。このような妄想領域に入ってきますと、現実に対する検討能力が低下していって、いい加減な治療をやったり、あるいは自己流の奇妙な治療方法を考え出したりするのですが、本人は「治せる」という、なみなみならぬ確信を持っていたりするのです。そして、もし治療が失敗しても、それは本人の行いが悪いからだとかいって、絶対に自分の非を認めようとはしません。
引用ここまで
他の記事も素晴らしいので、ぜひ読んでみてください。身体操作指導を生業にしている人は、うなずけることや反省してしまうことがたくさん書いてあるかと思います。
『ゲシュタルトの祈り』
私は私の人生を生き、私自身のために生きます。
あなたはあなたの人生を生き、あなた自身のために生きます。
私はあなたの期待に沿うために生きているのではありません。
あなたは私の期待に沿うために生きているのではありません。
あなたはあなたであり、私は私です。
私たちの心が、たまたま偶然にふれ合うことがあったとしたら、それは素敵なことです。
心が触れ合わなかったとしたら、それはしかたがないことです。
私とあなたが、私たちの基本です。
一緒にいてはじめて世界を変えることができます。
フレデリック・サロモン・パールズ(Frederick Salomon Perls)
対人関係ストレスは、他人との関係を義務や期待に基づいて構築することで強くなっていきます。本来は、義務や期待に基づいて他人との関係を築く必要はありません。誰かを助けてあげようと行動したとして、その助けを受けいれるかいれないかは相手しだいです。自分は自分のできることをするしかありませんし、助かるための努力をするのは相手の問題となります。
相手の問題に対して、自分の問題ではないという境界線をひくことは、とても大切なことです。相手が自力でのり越えるべき課題を何とかしようとすることは、相手にその力がないと判断して弱き者として見下しているということです。相手に対して自分の思うい通りの存在でいて欲しいという期待は、コントロール(操作であり支配)です。相手を思い通りに動かしたいだけに過ぎません。
境界線(バウンダリー)……「私」と「あなた」をわける線。境界線が守れている状態とは、「私とあなたは別々の存在=違う人間であり、違った考えと異なる価値観をもっている」という現実をお互いに認め合うことができます。それぞれの人間性はもちろん、役割や責任を最大限に尊重してコミュニケーションをとることができ、相手に自分の役割や責任を押しつけたり、逆に相手の責任を無駄に背負うような関係にはなりません。お互いを尊重できるため、不要な摩擦の少ない関係を構築することができます。境界線が構築できない関係は、お互いを尊重することができないため、不要な摩擦が連鎖的に生じてしまいやすくなり、トラブルにつながりやすくなります。
相手をコントロールしないために、境界線の引き方を学ぶことが大切だと思います。「ここからここまでは私の領域、そこから先はあなたの領域」ときちんと線引きしていくことが基本です。他人をコントロールしようとするのはアウトですし、自分の人生に責任を負わないのもアウトです。
他人を自分のコントロール下に置くことが成功と幸福を達成する方法だと信じている人は多いと思います。幼少時に生存スキルとして他人を自分のコントロール下に置くことを学んだためだと考えられます。しかしこれでは、良好な対人関係を構築することはできません。
自分のニーズよりも他人のニーズを優先し、他人の問題解決に夢中になる人も多いと思います。健全な関係は、適切な境界が土台となった感情的空間において成立します。境界を適切に守ることは、精神的健康を取り戻すには不可欠だとされています。他者のニーズを満たすために極度の犠牲を払うことで、当人が自給性や自律性を持たない不健全なペアという状態は、ペアの一方または両方が、自分自身の充足の為に、もう一方に依存しているという状態です。自分の価値が他人に由来するという勘違いのために、他人の人生を第一義に考えてしまっている状態となります。
「自分と他人との適切な境界線を引く3つの基本」
①他人の問題を自分の問題にしない
②他人の責任を自分の責任にしない
③他人がやるべきことを自分がやらない
常に、この3つを気にすることが大切だそうです。境界線を引けないでいると、本心ではやりたくないことをやることになったり、他者の行動や感情のケアをすることになったり、他者をコントロールしようとしたりしてしまって、対人関係ストレスを蓄積する結果に也がちです。自分が相手の境界線を越えてしまう人は同時に、相手にも簡単に自分の境界線を越えられてしまうということになるからです。
ゲシュタルトの祈りを詠唱しながら、適切な境界線を引くことの大切さを実感しております。
鍛錬 |
実践者の体型を美しく変化させている「安部塾コアプログラム」ですが、今後は『中心軸鍛錬』という呼び名にいたします。現在配布しているコアプログラム誘導次第を、さらに一般向けに改善して『中心軸鍛錬誘導次第』を書こうと考えております。刀匠が玉鋼を鍛えて刀剣を錬成するように、地味で地道な鍛錬をやっていきます。
イラストによる解説資料製作を考えていましたが、予定を変更して写真による解説資料をつくりたいと思います。20・21日の新宮校集中講座のときに、実技写真撮影を予定しております。
誘導次第と合わせて動画を観ると、少しだけ感覚はわかるかもしれません。
簡単そうに見えますが、やると難しいです。腰椎の安定化及び股関節と肩関節を反復的に動かす運動(ロッキング) pic.twitter.com/p2WYXGWyPQ
— 安部吉孝🐍大蛇(Orochi )🐉 (@yocchan19681) September 16, 2020
最速降下曲線を視覚化した興味深い実験。
— いっちー@バーチャル精神科医 (@ichiipsy) September 15, 2020
最短の道をいくことがつねに最速とは限らないという、面白い実験だと思う。 pic.twitter.com/EnKYmO10UY
これ、わかりやすいですよね。
最速降下曲線(さいそくこうかきょくせん 英: Brachistochrone curve)は、任意の2点間を結ぶ全ての曲線のうちで、曲線上に軌道を束縛された物体に対して重力 (に代表される保存力) のみが作用する仮定の下、物体が速度0でポテンシャルが高い方の点を出発してからもう一方の点に達するまでの所要時間がもっとも短いような曲線である。
最短の道をいくことがつねに最速とは限らない |
鍛冶のフリー素材・無料写真 |
金床(かなとこ)の上で金槌(かなづち)で鍛錬される玉鋼(たまはがね)が、美しい刀剣に錬成されていくイメージです。槌(つち)とは、物を打ち付けたり、潰したりする工具であり、鍛冶屋が金槌と金床で暮らしをより便利にする品物をつくることにより、快適な社会を創り出したととする説があります。
先生は槌となりて、玉鋼である生徒を叩きあげます。玉鋼とは、日本の古式製鉄法であるたたら製鉄の「鉧押し(けらおし)」によって直接製錬された鋼のうち、不純物の少ない白く輝く極上品をいいます。現代鋼と比較して有害不純物、特にリンと硫黄の含有量が非常に少ないため割れにくく、作刀の際の激しい折返し鍛錬にも耐えられる高い鍛接性をもちます。炭素量の調整と均一化、介在物の小型化と分散化を実現でき、優れた地鉄を持つ日本刀の製作が可能となります。
詳細はこちらで → 玉鋼
土製の炉に木炭と砂鉄を装入して鉄を作り出す「たたら製鉄」は、自宅での自主練習とイメージと重なります。玉鋼は「たたら製鉄」以外で生産することができません。どこにも「楽して一発逆転」のイメージはありません。ただただ地道にやるべきことを繰り返すだけです。そうしてつくられた肉体は研ぎ澄まされた輝きを身にまといます。インスタントな身体づくりでは、研ぎ澄まされた身体をつくることなどできはしません。
鉄は熱して赤めると急速に酸化が進むために、表面に形成された酸化膜によって鍛接ができない状態となります。通常はフラックスを用いますが、玉鋼の場合は、鍛錬する際に搾り出される鉄滓(てっさい)が鍛接面を洗い流す作用をもつため、酸化膜が鍛打によって簡単に剥がれ落ちます。
もうおわかりだと思いますが、「不純物」とは「楽して一発逆転」という願いそのものです。まずは「楽して」という不純な動機を一掃することです。
刀剣 |
衣装は鞘(さや)みたいなものです。刀身そのものの美しさが大切だと思います。
横隔膜の解放テクニック pic.twitter.com/Tn0KjIZxK4
— 安部吉孝🐍大蛇(Orochi )🐉 (@yocchan19681) September 15, 2020
9月の東京集中講座を終えて、「原点回帰するときが来たんだな」と感じました。私の活動の原点は「永遠の初級クラス」です。
9月東京集中講座 |
そうやって痛みから逃げようとすると、たいてい、
— 安部吉孝🐍大蛇(Orochi )🐉 (@yocchan19681) September 13, 2020
「一発逆転する方法」だとか、「もっと良さそうなセミナー」「真実を教えてくれる講師」を探したくなってしまいます。そして大抵、同じように失敗することが多いです。 https://t.co/Yi6fd1WCQ7
「うまくできている人の動きをよく見て正確に真似してください」という私の主張の根拠といえます。真似ができない人は共感力も乏しくなるために、繁栄することが難しくなると考えております。
— 安部吉孝🐍大蛇(Orochi )🐉 (@yocchan19681) September 9, 2020
そうするとやっぱり「うわー、全く書いてないことを読み上げてるわー…」というケースが必ずある。「書いてある通り、そのまんま、ただ読めばいいだけ」なのに、それができない。「どこにも書いてないことを読む」って、ツイッタランドのクソリパーだけじゃなく「小さい頃から」始まってるみたいだよ
— 小林幸子(。◕ ∀ ◕。)凡夫(๑╹ڡ╹๑)ノ (@sateco) January 28, 2020
だって「書いてあることを、書いてある通りに、読めない」んだから。
— 小林幸子(。◕ ∀ ◕。)凡夫(๑╹ڡ╹๑)ノ (@sateco) January 28, 2020
勉強の前にまず「テキストの音読」をやって「書いてあることを、書いてある通りに、そのまま読む」訓練したほうがいいと思う。
「書いてある通りに読める人」にとっては「一体どうやったらそんなことができるのか」「書いてないことを読むほうが、はるかに難しい」と思うのですが、「書いてある通りに読むほうが難しい人」にとっては「自分で勝手に創作する方が簡単」みたい?と思います
— 小林幸子(。◕ ∀ ◕。)凡夫(๑╹ڡ╹๑)ノ (@sateco) January 28, 2020
昨日、下関でコアプログラム誘導次第を使いました。展示も少々。好評でした。
骨盤の巻きあげ pic.twitter.com/mk4KIMmE6R
— 安部吉孝🐍大蛇(Orochi )🐉 (@yocchan19681) September 5, 2020
下関だけに顔がフグですが、コア・コブラ(なみさん撮影)。
コアプログラム・コブラ |
現在、イラスト版を描く始めましたが、文字版とは比較にならないくらい苦戦しております(笑)。
安部塾コアプログラム誘導次第 |
先日、オンライン塾生とグループレッスン参加者向けに配布した『安部塾コアプログラム』ですが、一般向けにわかりやすくしたものを『バイブル』として一から書き直しております。「普通の人にわかるような言葉」で解説するのは想像をはるかに超えて困難なため、想定外に難航しております。明日までしっかりと構想を練りあげ、木・金曜日に書きあげたいと考えております。先発で文字による誘導版を書き、後発でイラストによる誘導版を描くつもりです。
今日のKANON塾生講座にて、写真版を試してみました。
安部塾コアプログラム 腰背部のリラックス |
しばらくの間、ハタヨガの練習をお休みしておりましたが、本日より練習を再開いたします。
ヨガを学ぶということは、「本来あるべき自分に戻る=心を鎮める」ということです。ヨガの語源となったとされる「ユジュ」は「つなぐ、結びつける、統合する」という意味の語です。なので私は、「失ったバランスを取り戻し再統合する」というような意味で理解しています。人の心は「未来」や「過去」に向いてしまいがちですが、身体は常に「現在」に存在しています。身体を動かすことで、心を「現在」に呼び戻すことができます。心が現在にあれば、未来や過去を思い煩う憂いは消えます。
ハタヨガとは、身体的行法によって「失ったバランスを取り戻し再統合する」さまざまな系統のヨガを包括した言葉です。ゆったりとしたスピードで、呼吸に重点を置きながらアーサナ(体位)を実践するのが一般的です。かなり段階が進むまで呼吸には触れない流派もあります。私は、心の状態よりも身体力学と呼吸を重視しております。
2000年より始まったヨガブームは、昨年までにすっかり下火となっておりました。そこにコロナ禍がきて本来の静けさを取り戻したように感じます。「行き過ぎたビジネス」と「失ったバランスを取り戻し再統合する」ということを両立するのは無理だと思います。現在はオンラインレッスンが盛んになっていますが、それで「本来あるべき自分に戻る=心を鎮める」ことができるかというと、どうなのかなと感じております。数年後、答えは出ているのかもしれません。
美術解剖学と機能解剖学の知識を総動員して、私なりの再解釈を試みていこうと思います。