ストレス耐性が強そうな人を見ると、実は「メンタルが強い」というよりは、「自分のメンタルに害を与えそうな人と距離を取るのがうまい」ということに気づく。
— 外科医けいゆう/山本健人(Takehito Yamamoto) (@keiyou30) September 20, 2020
メンタルの強さそのものに大差はなくても、ダメージを予見し回避できれば消耗しにくい。
なお、自分はあまり上手くない。
こちらの記事がわかりやすいかと思います。
この人を変えようと思うことが何を意味しているのかと言いますと、現在のその人のありようを否定して、あなたが「普通だ」、あるいはあなたが自分で「正しい」と思っている価値観を、むりやり相手に押しつけることなのです。これはつまり、あなたの価値観だけが正しくて、他の人もすべてあなたの価値観に従うべきだというメッセージであり、他人の価値観に対する帝国主義的な侵略行為でもあるのです。
あなたが自分で「普通」だと思っている価値観や人生観を押しつけようとすれば、境界例の人は、あなたと同じように、このような侵略行為に対して拒絶反応を示すことでしょう。これは、人間として正常な反応なのです。そして、あなたが「この人を変えよう」と思えば思うほど、二人の間にはさまざまな争いが発生することとなり、あなたはますます激しい精神的な消耗を味わうことになるのです。
なまじ「この人を変えよう」などと思って、自分の思い通りに操ろうとするからこそ、不要なトラブルが発生して、お互いに消耗することになるのです。ですから、このような状態を回避するためには、この人はこういう人なんだ、この人はもう変わらないんだ、一生このままなんだと割り切ることで、そこから、ではこういう人に対して効果的に対応するにはどうしたらいいのだろうかというさまざまな工夫が生まれてくるのです。これが境界例の人と付き合っていく上での、最初に必要なことであり、これがすべての第一歩となるのです。
この人を変えようと思うのではなくて、あなた自身が変わればいいというのは、あなた自身がこういう工夫をすればいいということなのです。あなたが他人を変えようとするから、いろいろな争いが発生して、お互いに消耗したりするのです。他人というのはあなたの操り人形ではないのです。あなたの思い通りに動いてくれるはずがないのです。私の気持ちを理解してくれないとか、あれをしてくれない、これをしてくれないと嘆いたり、腹を立てたりしても、境界例の人が「×××をしてくれない」のは当然のことなので。それは、他人だからなのです。あなたの延長のような存在ではなくて、あなたとは別個の存在だからなのです。ですから、こういう人に対応するには、こういう人なんだと割り切って、じゃこういう人に対してどう対応したらいいのだろうかと工夫をしてみればいいのです。つまり、他人を変えるのではなくて、あなた自身が態度を変えるのです。そうすることで、状況が変わってくるのです。
境界例の人と接したときに、反感を抱きながら「この人を変えよう」と思う場合もありますが、最初のうちは共感的な態度で、この人を何とかして救うことはできないだろうかと思う場合もあります。そして、救済者を演ずるという幻想を掻き立てられて、救いの手をさしのべるのですが、境界例の人にさんざん振り回されることとなり、やがて疲れ果てて反感を持つようになったりすることがあります。このような現象は、ただ単に境界例の人に問題があるというだけではなくて、あなた自身の心の中になんらかの隙があり、それが境界例の人と接したときに、救済者幻想という形で現われたりするのです。
余計なお世話を焼くタイプというのは、自分の問題よりも他人の抱えている問題となると、俄然と熱心になる傾向があります。しかも、境界例の人の抱えている問題というのは、非常に華々しい症状を伴うことがありますので、ますます世話を焼きたくなったりするのです。たとえば、手首を切って血だらけになったり、薬を一気飲みして自殺未遂をしたりと、破滅的ではありますが、同時に強烈なドラマ性も持っていたりしますので、そういう人を見かけると、ますます世話を焼きたくなって、じっとしていられなくなるのです。そして、「私は救済者なのだ」という重々しい使命感に燃えて、まるで映画やテレビドラマの重要な登場人物にでもなったかのような気持ちで行動してしまうのです。
自他の区別の混乱というのは、相手の人の中に自分自身の姿を見てしまうことによるものなのです。目の前にいる困っている人の姿と、見捨てられた自分自身の惨めな姿とをダブらせて同一視してしまうのです。そして、まるで鏡に映った自分自身と接するようにして他人と接してしまうので、自分と他人の区別が混乱してしまうのです。それだけではなくて、鏡に映し出された自分自身を救い出そうとしますので、これが他人にとっては余計なお世話となるのです。
このような自分と他人の混乱がさらにひどくなるとどうなるかと言いますと、他人の意向を無視してでも、強引に自分勝手な救済劇を演じようとするのです。自分の生活を犠牲にしてでも、他人の世話ばかり焼こうとするのですが、それが余計なお世話であるが故に、他人からは嫌がられます。そして、このような他人からの冷たい反応に対して、「私がこんなに尽くしてやっているのに、なぜ誰も私に感謝しないのか。みんな、自分のことしか考えていないのか」と、怒りを覚えたりします。もしも、あなたに思い当たる事があるとしたら、あなたは、自分と他人の区別が非常に混乱していると言えるでしょう。
救済者の人は、最初のうちは救済者としての幻想に自己陶酔していたりするのですが、そのうちにいらだちを覚えるようになってきます。せっかく救いの手をさしのべてやっているのに、それが自分の思い描いたシナリオ通りに展開しないことに腹立たしい気持ちになってくるのです。反対に、境界例の人も、自分の思うようにしがみつかせてくれない救済者に対して、強い不信感を抱くようになります。そして、救済者を極悪非道の悪人呼ばわりしたりするのです。しかし、何かの拍子に、しがみつきが満たされたりしますと、突然手のひらを返したように、救済者を天使のような人だと言ったりするのです。救済者の方も、悪態をついたりする相手に憎しみを覚えたり、そうかと思うと、突然自尊心をくすぐられるような事を言われたりして、ご満悦な気分になったりと、まるでジェットコースターにでも乗っているかのような変化に富んだ関係を体験することになります。もしも、両者の思惑が適度にバランスのとれた状態であれば、このような不安定な状態が安定的に継続するという、いわゆるボーダーライン・カップル状態になるわけです。しかし、ボーダーライン・カップル状態になる以前に、関係が破綻してしまうケースも多いのではないかと思います。いずれにせよ、このような強烈なドラマ性を持った関係は、存在感が希薄な人にとっては、精神的な依存を形成するのです。つまり、ドラマ性のあるトラブルが連続して発生するという状態に、一種の精神的な中毒状態(トラブル・ジャンキー)となり、自分でも無意識的にトラブルを誘発するのです。そして、トラブルという嵐の中にいるうちは、相手をしてくれる人がいて、空虚感を埋めてくれるのです。そして、救済者の人も、このようなトラブルの中に長時間いるうちに、いつの間にか「境界例もどき」とでも言った状態になるのです。
自己愛性人格障害の傾向を持った人の場合も、注意が必要です。こういうタイプの人は、自分の歪んだ自己愛を満たすために、弱者を利用しようとします。誇大に膨らませた救済者というイメージを演じようとするのです。そして、その輝かしいイメージを演ずるために弱者を必要とするのですが、あくまでも本来の目的は、栄光に満ちた誇大なイメージを演ずることにありますので、弱者はそのための単なる道具として扱われます。このようなタイプの人は、救済者というイメージを演じられなくなると、とたんに手のひらを返したように冷淡となり、まるで気に入らなくなったオモチャを捨てるかのようにして、弱者を簡単に見捨ててしまうのです。
境界例の人は、特に自我がもろい構造になっていますので、下手に心をいじると、逆に症状が悪化してしまい、自分の手には負えなくなって、結局最後には見捨ててしまうことになるのです。しかも、救済者という幻想に取りつかれていると、「症状が良くならないのは本人が悪いからだ」などと、責任を全部相手に押しつけてしまったりするのです。自分のやった無謀な「治療?」行為をすべて棚に上げて、「自分は『正しい』治療をしてやっているのに、救いようのないやつだ」などと言って、境界例の人を見捨てしまうのです。このようなことは、境界例の人をさらに悲惨な状態に追いやることになりますので、自分勝手にセラピストを演ずるのはやめてください。
自分の能力も省みずにセラピストの役を演じて、困っている人を救済しようと試みるのです。そして、まるで神にでもなったかのような全能感を味わおうとするのです。このような全能感が、空虚でみすぼらしい自分自身の現実を覆い隠してくれるからです。このような妄想領域に入ってきますと、現実に対する検討能力が低下していって、いい加減な治療をやったり、あるいは自己流の奇妙な治療方法を考え出したりするのですが、本人は「治せる」という、なみなみならぬ確信を持っていたりするのです。そして、もし治療が失敗しても、それは本人の行いが悪いからだとかいって、絶対に自分の非を認めようとはしません。
引用ここまで
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