2020年9月24日木曜日

相手を変えようとしないというスタンスを堅持することによって、人間関係が簡素化されてスッキリしていきます。

元知人が発信している内容が、あまりにも狂っているので、どうしてあんなことになっていくのか考えてみました。おそらくは「他人が変わるべきだ」という思い込みが強く、ストレスから解放されることがないからではないかと分析しました。

現実世界の人間関係においては、「相手を変えようとしない」という基本スタンスを守る必要があります。相手を変えようとする人たちの対人関係を観察してみるとよくわかりますが、関係がうまく続くことはほぼありません。そのため、いつも孤独です。

どんなに願い望んだところで、自分以外の他人を変えることはできません。できないことをしようとすれば、人間関係は軋み、壊れてしまいます。相手に変わってほしいと望むこと…「変えようとする」ことが孤独な状況をつくりだします。

どうにもならないことをどうにかしようとすると、苦しむことになります。相手を変えようとすることは、どうにもならないことの最右翼ではないかと思います。元知人が狂っていっているのは、相手を変えようとする救済者妄想に浸り、自己陶酔しているからだという気がしております。

どうにもならないことは放っておくしかおりません。変わらないものは変えられないわけですから、無理矢理変えようとしない……放っておくしかありません。

相手を変えようとすれば、相手が変わらないことに心が乱れ、ストレスでイライラすることになります。放っておくことができれば、心がざわつくことがありません。相手を変えようとしないというスタンスを堅持することによって、人間関係が簡素化されてスッキリしていきます。

相手を変えようとする人は、自分に失望しているのかもしれません。「できなさすぎてストレス」というのは、相手を変えようとする人の特徴とされます。自分に失望しているがゆえに基礎の積み重ねをしませんし、簡単にできることしかしないことで、さらに自分に失望してしまいます。そうなると、相手を変えようとすることにのめり込み、狂っていくのだと思います。

私は最近、人は変わるのではなく磨かれていくのだと感じるようになりました。砂鉄が製鉄されて玉鋼に、玉鋼が鍛練されて刀剣に、刀剣が磨かれて美術品になっていくようなイメージです。変わろうとするのではなく、鍛えられて磨かれることで美しくなっていくのだと思うのです。

「私にはあなたの苦しみがわかる力がある。あなたを救う力がある」という盛大な勘違いは、鍛練と研磨から逃げ続けて自分に失望して闇に堕ちた人間ゆえの所業だと思います。自分語りと自撮りを繰り返してみたところで、鍛えられることも磨かれることもありません。錆びて腐ってしまうだけです。

今月から展開している中心軸鍛練は、ある程度まで進んだら中心軸研磨になるのだなと気づきました。

ただひたすら地道に叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて……鍛えあげた先に磨きあげの段階が待っています。

11月の奥出雲への旅が楽しみです。