2018年11月14日水曜日

やわらかさと強さの両立~秘すれば花・初心忘るべからず

ヨガブームは、下火になりました。

期待したほど効果が出ないのと、ケガ・故障が絶えないことが主原因かと思います。

促成指導者の量産による指導内容の低迷化や、スタジオの乱立なども。

しかし、ヨガが巷に溢れるようになったことで、よくなった面もあります。


『やわらかさと強さの両立』という概念が一般化しつつあるということです。


少し前までのヨガは、クネクネと奇妙なポーズをとるというイメージでした。

その後、難易度が高いポーズをドヤ顔で見せびらかすという流れになりました。

下火になってきたのは、この系統のヨガです。

同じように、奇妙な呼吸を伴う系統も下火になってきました。


一方で、セラピューティックでリハビリテーション的なヨガがジワジワと広まりました。

機能解剖学に基づき、当たり前の動きを当たり前にやる流れのヨガです。

特殊なことを一切しないのが特徴です。

現代用語を駆使した徹底的な座学を中心に、安全に心身を磨けます。


また、ヨガの本来の目的である『ナルシシズムの克服』に取り組む人たちも増えました。

いい傾向だと思います。

ポーズ自慢や、奇妙なポーズができるようになった自慢は、わかりやすい自己愛性パーソナリティです。

へんてこりんなポーズで、まともな人たちの心を打つことはできないので、下火になるのは当然の帰結ということになります。

現代語訳 風姿花伝 世阿弥(著)水野聡 (翻訳)


世阿弥の『風姿花伝』より。

秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、という。この違いを知ることが、花を知る重要点である。そもそも一切、諸道、諸芸において、その家々で秘事とされるものは、秘することによって大きな効用があるゆえである。つまり秘事は露見すれば、秘密にしておく程のものではないのだ。これをそれほどのものではないという 者もいるが、それは未だ秘事の大きな効果を悟らぬゆえである。まずこの花の口伝、「ただ珍しさが花なのだ」ということをすべての人が知ってしまえば、さあ、珍しいものが見られるはずだと思い期待する観客の前では、いくら珍しい芸を披露してみたところで見ている人の心に珍しいという感覚が生まれるはずもない。見ている人にとってそれが花だということがわからないからこそ、シテの花ともなるものなのだ。されば見る人が思いのほか面白く演じる上手だ、とのみ感じ、これが花だとわかっていないことがシテにとって花となる。つまりは人の心に思いも寄らない感動を呼び起こす手立て。これこそが花なのである。
 たとえれば弓矢の道の手立てにも、名将の案と計らいにて思いも寄らぬやり方で、強敵にも打ち勝つ例がある。これは負けた側から見れば、珍しさの理に惑わされて、敗れてしまったのではなかろうか。これが一切、諸道諸芸において勝負に勝つ理である。こうした手立ても事決して、こういう謀だったと知れてしまえば、後で批判することはたやすい。が、前もって知らなかったからこそ負けてしまったのである。
さて、これを秘事のひとつとして当家に伝承する。これにてわきまえよ。たとえ秘事を明かさないにしろ、かような秘事を持つらしいと人に感づかれることさえあってはならない。人に感づかれる時、敵であれば油断せずに用心し始めるので、かえって注意をひきつけることになってしまう。敵方に用心させなければ、勝つのはいともたやすい。人に油断させ勝利を得ることは、珍しさの理の大きな効果ではないか。すなわち当家の秘事として、人に悟られぬことにより生涯咲き続ける花を持つ主となることを授ける秘すれば花、秘せずば花なるべからず


他人に隠しているものは、本当は大したものではありません。

相伝・継承される道の秘伝というものは、秘して他人に知られないことにより、最大の効果を発揮するものなのです。

秘伝されたものそれ自体は、種明かしをしてしまうと必ずしも深遠なものではありません。

誰も気付いていないという、珍しさ、意外性により、感動を生む芸となるのです。

秘することそのものが芸に最大の花を生む秘伝なのです。


ほとんどすべての身体操作の秘伝が公開されている現在、本当はたいしたことではないということがバレてしまったということになります。

逆に、地道に本道を突き進んだ方が、好結果につながるということも、よく知られるようになりました。


 さらに、十体より大事なことは、年々去来の花を忘れぬことだ。たとえば十体とは物真似の品々のことだが、年々去来とは幼ない頃の容姿、初心の時の技、油の乗った時分の演技、壮年期のたたずまいなど、その時代時代に自然と身についた芸をすべて今、一度に持つことである。ある時は少年や若者の能に見え、ある時は全盛のシテかと思い、またある時には、いかにも〓たけて年季の入ったように、同じ役者とは思えないような能をすべきである。これすなわち幼少時より老後までの芸を一度にもつ理である。それで毎年毎年、去ってはまた来る花とはいったのだ
 ただし、この位に至ったシテは、今にも昔にも見聞きしたことがない。亡父観阿弥、若い盛りの能では、〓たけた芸がことのほか得意であったなどと聞いているのだが。四十過ぎの能は見慣れているので間違いない。自然居士の物真似に、舞台の演技をご覧になった時の将軍より十六、七の役者に見えたとお褒めいただいたものだ。これはまさしく人もいっていたし、自身の目でも見たことなので、この位に相応している達人だと思ったことである。
 このように若い時分には行く末の年々去来の芸を得、年とってからは過ぎしかたの芸を身に残すシテ。これまで二人と見たことも聞いたこともないものだ。
 されば初心よりこのかた芸能の品々を忘れず、その時々、用々に従って取り出だすべし。若くして年寄りの風情、年とってなお盛りの芸を残すこと。珍しくないはずがあろうか。されば芸の位が上がったといって、過ぎし芸風をやり捨てやり捨てしては忘れてしまうこと。ひたすら花の種を失い続けることとなる。その時々に咲く花ばかりで種がなければ、手折られた枝の花のようなもの。種があり、毎年毎年季節が廻りさえすれば、なぜまたその花に逢えないことなどあろうか。ただかえすがえすも、初心忘るべからず。されば常の批評にも、若いシテに「はや完成した」「年季が入っている」などと褒め、老シテには「若やいでいた」などというのである。これぞ珍しさの理ではあるまいか。十体をそれぞれ彩れば百色にも及ぶ。さらにその上、年々去来の品々を今一身に持てたとしたら、どれほどの花になることであろうか。


最近、何もかもうまくいかなかった16~42歳の頃を回顧しています。

同時に、「初心のころの未熟な考えやわざをいつまでも捨てない」ことの大切さを実感しています。

年齢による、その時々のもっとも旬の演技を常に忘れず、芸の種類、幅として保持し、いつでも披露できるようにしてきたことが、現在の私を支えています。

年齢と芸の進歩に従って、以前の芸を恥じては捨て、捨てては忘れしてしまうことを世阿弥は戒めてくれています。

私は、あの時代に積み重ねてきた芸を、生涯忘れることはありません。


「花はこころ、種はわざ」

初心の芸を捨て去ることは、芸に何百種類もの花を咲かせるための大切な種を捨ててしまうことです。

これらの芸は年々に来たっては去る花、すなわち「年々去来の花」です。

そのことをくれぐれも忘れてはならないと思います。