満たされない承認欲求という化け物を心の中に宿している人は、とにかく人に認められて、自分の価値を認めさせたい、と悪あがきを繰り返します。
皮肉なことに、人に認められたくて行動しているうちは、承認されることはありません。なぜなら、承認されるのは、その人の行動ではないからです。
その人の在り方、つまり生き方そのものだからです。
一昔前は、舞台にあがることで承認欲求を満たそうとあがく人がたくさんいました。ほとんどの場合、心身を病んでしまう結果になっていました。関節を壊したり、メンタルをやられたり。そもそも論として、華のない人が舞台にあがったところで、華のなさが顕わになるだけなのです。
現代は、舞台の人気が衰え、SNSや動画投稿サイトが盛り上がるようになりました。気軽に参加できる分だけ競争も苛烈ですが。あと、みんなすごいレベルなので、少々何かができるという程度では、まったく通用しません。
身体を壊しながら、求められてもいないのに舞台にあがりたがる中年期クライシスな人たちが、舞台の経営を支えていたんだなと感じることが多くなりました。各地で、劇場が閉鎖になり、劇団が解散していっているのを見ていると、時代の流れには逆らえないなと思います。
「何をやるか」ではなく「誰がやるか」という言葉を、よく耳にするようになりました。
ここ数年、人気のない人を観察していて気がついたことがあります。「何をやるか」に対するこだわりが強いのです。「誰がやるか」という視点で考えれば、選ばれる人になればいいのですが、「何をやるか」に対するこだわりが強いために「技術」「内容」にばかり目がいって、視野狭窄に陥っているように見えます。
そして、本人の自己評価の高さとは裏腹に、実際には評価されていないどころか、関心すら持たれていないという残酷さ。必然的に、しつこくアピールを繰り返すことになり、満たされない承認欲求が肥大化していくという展開に。
若いときに認めてもらえなかった人が、老いて認められるなんて可能性は限りなく低いわけで、「私がやってきたことは間違っていなかった!」と自分で発言しなければならないというのは、それこそ間違いでしかなかったことの証になってしまっているような気もします。
むしろ、「いやー、ろくな人生じゃなかったなー(笑)」とか言ってる人たちの方が、実は他者に認められ、他者を認め、和気あいあいと生きてきたというのが現実なんだなと思います。
何かをやるときに、「楽しいからやる」という人は、その生き方に惚れる人も出てくるので、結果的に認められる人生になるのだと思います。
他者に認めてもらうために必死になる(文字通り「命をかける」)人は、その思いとは裏腹に、惚れてくれる人は現れず、ヨイショしてくれる太鼓持ちに囲まれるだけの人生になるのかもしれません。
なので、中年期以降は、「本当にやりたかったこと」を、自分自身のためにやっていくのがいいんじゃないかと考えています。