2024年3月14日木曜日

「できることはもちろん望ましいが、できなくても気にせずまたやればいい」という風に考える合理的な信念で生きていくのが自然なのです。

 こちらの記事に、共感しました。

→ 多趣味は中途半端?悪いこと?メリットとデメリット3選

 趣味が多いのはそれだけ興味関心の幅が広いということですが、なんだかまるでそれが悪いことであるかのような風潮がありますよね。

 多趣味ということは、興味関心のアンテナがあちこちに向いているということ。

 そのため、一度やり始めたことを途中でやめてまた違うことをし始めるという傾向のある人が、私自身も含めて多いように思います。

 そして、このことこそが「多趣味は中途半端」といわれてしまう原因になっているのではないでしょうか。

 結論から申し上げるなら、多趣味は決して悪いことではありません。

 「趣味」とは、「仕事や職業としてではなく個人が楽しみとしている事柄」というのが本来の意味です。

 「いろんなことにチャレンジしたくなる」点が、必ずしも好意的に受け取られるばかりではないところに、「多趣味は悪いことなのか」の答えがあります。

 「いろんなことにチャレンジしたくなる」と言えば聞こえはいいですが、逆に見るなら「すぐに飽きてしまう」、「お金や時間にだらしない」というようにも取れるのです。

 「いろんなことにチャレンジしたくなる」と考えて何かをやり始めた結果、すぐに別の物事に興味が移り、結局どれも中途半端なままに終わってしまう・・・。

 こういった点がマイナスなイメージに結び付き、多趣味を良しとしない考えとして定着してしまったのではないでしょうか。

多趣味のメリット

・知識の幅と経験値が広がる

・人脈ができる

・時間を上手く使える

多趣味のデメリット

・人よりお金がかかる場合がある

・時間がどれだけあっても足りない

・大切な人と過ごす時間が取れない


 趣味の時間を充実させることで人生にハリが生まれ、毎日を楽しく過ごすことができるのも、多趣味な人によく見られる特徴ではないでしょうか。

 もちろん、多趣味であるがゆえのデメリットもあります。

 形から入ることにこだわるならやはりその分だけお金がかかりますし、趣味が多ければ多いほど、どんなに時間があっても足りません。

引用抜粋ここまで


 多趣味とは、「多くの方面に趣味があること。趣味が豊かなこと。また、そのさま。」という意味です。多趣味な人は、退屈で平凡な毎日を過ごすことはありません。楽しそう・面白そうと感じたものに対して敏感に反応します。さまざまな分野に挑戦するため、おのずと知識や経験が増えていきます。

 趣味の種類によっては必要な道具・機材を揃えるための費用や練習費・地代・移動費などで多額のお金が必要になりがちです。なので、ある程度自由にできる経済力がないと、多趣味を継続することはできません。

 多趣味の最大のメリットは、「趣味と趣味の掛け算」ができることだと思います。「趣味と趣味の足し算」ではないのがポイントです。つまり、倍々ゲームで楽しみが増幅するということです。複数の趣味を掛け合わせて新しい楽しみ方を生み出すことができるのです。

 個人的に、「特定の何かで一流になるより、いろいろな趣味で二流になる方がよい」と考えています。身体操作の勉強をすればすぐにわかりますが、特定の何かに特化すると身体や考え方が歪むという結果になりがちです。中途半端な状態というのは、実はバランスが良いのです。

 「とりあえずやってみる」という姿勢で、いろいろな趣味に挑戦することで、その趣味が自分に合うのか合わないが体感でわかります。やったからことではじめて見えるものがあるのです。これは、「何かひとつの趣味を徹底する」というスタンスでは見えてこない世界です。

 そもそも、趣味とは、「熱中して楽しむ」ものだと思います。そんな本質を忘れて、何かに急き立てられるように「元をとらなくては」とか「中途半端はだめだ」とか息苦しくなってしまうのは本末転倒だと思います。

 無条件に認めてもらえずに生きてきた人が、無条件に認めてもらって生きてきた人に「そんなことしていて、恥ずかしくないの?」という言葉を投げていることがあります。親が多趣味だった場合、ひとつのことを極めなければならないという「べき思考」に侵食される可能性は低くなります。なので、「中途半端でもいいから、とりあえずやってみて、つまんなかったらやめればいい」という楽しみの掛け算ができるようになります。「べき思考」は非合理的な信念のひとつなのです。

 非合理的な信念とは平たく言えば極端な思い込みのことです。「事をなすには、完全無欠であらねばならない」とか「ものごとはうまく運ぶべきで、直ちに最良の解決策を見出さねばならない」とかですね。

 「常に~でなければならない」などの硬直した考え方にこだわり過ぎると、そうならなかったときに落ち込んだり、自分のことが許せなくなったりして、うつや不安な気分になりがちです。自分に制限をかける「べき思考」があると、苦しい状況に陥りやすいのです。

 「~であることはもちろん望ましいが、できなくても気にせずまたやればいい」という風に考える合理的な信念で生きていくのが自然なのです。

 前提として、べき思考の人は「本来の自分を許していない」という状況にあります。周りの社会や状況に適応するためであったり、自分を守るためであったりするわけですが、そんな自分を制限している状況が続くと、自分を制限していない人に対して「恥ずかしくないの?」という気持ちになってしまうのだと思います。

 私たちは自分が経験する出来事や状況をありのまま受けとめるのでなく、自分の「信念」で色づけして受け取っているのです。言ってみれば、「信念」という色眼鏡を通して、自分自身を、そして周りの世界を見ているのです。自分の信念に合うようなことばかりを拾いあげて作り出した信念や、他の考え方をゆるさないような信念は、不合理な信念です。

 自分を生きづらくさせている「不合理な信念」に気づき、それを現実に即した「合理的な信念」に変えていくことで、息苦しくないゆとりのある生き方ができるようになります。