力積 |
NAGOYAのスプラッシュマウンテン pic.twitter.com/Cil0OzBHp7— どらどらむ@COBHC (@M_DraDrum) 2017年4月11日
福岡の都市高速でも、ときどき分岐で同じことをしている車がいる。
アイックスでパーソナルグラスをつくるべきだと思う。
さて、本題。
以前高校生か中学生かだかが「年上だからって尊敬できない相手に敬語は使えません」って意見見たけど、敬語って相手の為というよりもむしろ「自分は礼儀礼節わきまえた害のない人間ですからあなたにも紳士的対応を求めます」って態度を示すためのもんで、相手が尊敬できるかできないかは関係ないよね— 葦切鮫 (@samekiri1) 2017年4月10日
むしろ尊敬できない相手にこそ礼儀正しくしとかないと「私は敬語もろくにつかえないすっとこどっこいですんでそういう扱いしちゃっていいですよ」って思われるんだよ。年上のくせに尊敬できないろくでなしにだぞ?こんな恐ろしいことはないよね。というわけで我が身可愛けりゃ敬語は使っとこう— 葦切鮫 (@samekiri1) 2017年4月10日
「たしかに」と、思った。
昔の僕は、形式的な挨拶をしなかった。
いまもしない。
するのは、抱擁と御礼のお辞儀。
小さい頃から、「頭は自然と下がるもの」だと考えてきた。
相手の人格の素晴らしさが、頭を下げさせる。
そういうものだと、ずっと考えてきた。
「君は、どうして私に挨拶をしないんだ!」
そう激高する方もおられた。
意味がわからなくて、ポカンとした覚えがある。
僕は、挨拶されることを必要としたことがなかったから。
そんなに、他人に頭を下げさせたい人が存在することに驚いた。
翌日、その人の皮膚がズタボロになっているのを見て、皮脳同根だと笑った。
僕が学んだ礼においては、相手の非礼を許すことこそ礼節だったから。
自分の礼儀を相手に押し付け、許す心が持てない人間に礼節はない。
行き着く先は自滅だ。
礼節とは、愛する心でもって、相手を包み込むということなのだ。
自分の礼儀を押し付ける人間は、愛せないし、愛されない。
一方で、所作の美しさにはこだわってきた。
他人を正すのではなく、自らの所作を美しく磨きあげること。
文字通りの「躾(しつけ)」。
所作の美しさで、まわりに良い影響を与えていくことが肝要だと思う。
躾を意識して生きていたら、自然と愛されて、愛に満たされる。
そう。
機能解剖学を理解できているかどうかは、愛されているかどうかでわかるのだ。
所作の美しさと、人間関係の良好さには相関関係があると、安部塾では考えている。
今日の塾生講座で、詳しく解説する。