扁桃体の暴走と、DLPFC(背外側前頭前野)の機能低下。
練習すればするほど、痛みがひどくなる。
慢性痛になった時点で、脳が壊れていると考えています。
萎縮した脳 |
健康のためなら、普通の運動で充分です。
特別な動きをしたら効果がありそうだと考える時点で、脳の萎縮が始まっている気がします。
見世物的なパフォーマンスに走り出したら、扁桃体の暴走の証左ではないかと考えています。
代償は安くないと思います。
とはいえ、かなりの割合で、過剰な柔軟性と力を求めてしまう人たちがいます。
途中で目が覚めて、僕のところに通う人たちもいます。
通ってくる人に話を聞くと、「そりゃ、壊れるよ」って内容をやっています。
全否定して、0(ゼロ)から学び直してもらいます。
まあ、簡単な話、間違ってないなら痛みは出てないんですよね。
慢性痛なんて出ている時点で、OUTでしょう。
僕は、身体の動きは、ノーミスである必要があると考えています。
ミスのない動きで、しっかり負荷をかける。
古来より受け継がれてきた、先人の智慧。
構造学的・力学的に正しい動きは、美学的に美しいのです。
構造学的・力学的に正しい動きは、美学的に美しいのです。
構造学的・力学的に正しい動きは、美学的に美しいのです。
大切なことなので、3回書きました。
美しい動きを目指せば、脳は壊れません。
問題は、美しさを感じるセンサーが壊れていると、美しさを正しく認識できないということ。
壊れた脳は、美しさを感じることができないのです。
なので、プロメテウス解剖学の力を頼ります。
これまで、構造学的・力学的に正しい動きに触れてこなかった人には、高い障壁があります。
自分が正しいと思い込んでいる人には、超えることができない障壁です。
超えたいのなら、先人が積み重ねてきた知恵を学び直しましょう。
自分のバカさ加減が理解できたら、道は自ずと拓けます。
そう。
遠くまで見渡したいのなら、巨人の肩に乗ればいいのです。
遠くまで見渡したいのなら、巨人の肩に乗ればいい |
先人の積み重ねた発見に基づいて何かを発見することを指す。「巨人の肩の上に立つ」、「巨人の肩に座る」、「巨人の肩に登る」、「巨人の肩に乗る小人」、「巨人の肩に立つ侏儒」などの形でも使われる。科学者アイザック・ニュートンが1676年にロバート・フックに宛てた書簡で用いた、
私がかなたを見渡せたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩の上に乗っていたからです。(英語: If I have seen further it is by standing on ye sholders of Giants.)
という一節を通してよく知られている。このニュートンの手紙が原典だと信じられていることも多いが、最初に用いたのは12世紀のフランスの哲学者、シャルトルのベルナールとされる。
この言葉は古代文化の偉大さを認め継承した上で進歩を意識する、12世紀ルネサンス期の人文主義における穏健な進歩思想(英語版)を象徴したものとされ、シャルトル学派のシャルトルのベルナールに帰せられている。文献上の出典は、ソールズベリのジョン(英語版)が1159年の著書『メタロギコン』(Metalogicon) で次のように述べた箇所である。
私たちは巨人の肩の上に乗る小人のようなものだとシャルトルのベルナールはよく言った。私たちが彼らよりもよく、また遠くまでを見ることができるのは、私たち自身に優れた視力があるからでもなく、ほかの優れた身体的特徴があるからでもなく、ただ彼らの巨大さによって私たちが高く引き上げられているからなのだと。
博識な賢者にかく問う者があった。「先人は我々自身よりも賢明であったことを我々は認める一方で、先人の見解を批判し、しばしば否定し、真実は我々とともにこそあると主張する。これ如何に。」賢者答えて曰く、「矮人と巨人、いずれが遠くまで見渡せるか。無論、目が矮人よりも高くに位置する巨人である。しかし矮人が巨人の肩の上に乗せられたならば、いずれが遠くまで見渡せるか。 … つまり我々もまた、巨人の肩にまたがった矮人である。我々は彼らの知識から学び、さらに先へと進む。彼らの知識により我々はより多くを学び、言うべきことを言えるようになるが、これは我々が彼らよりも優れているからではない。」
引用ココまで
巨人の肩に乗りましょうw