2014年2月6日木曜日

『慈しみたいという感情』が透けて見える美しい所作

どっちが正しい?

どっちが間違っている?

正義と正義がぶつかると、無益な争い・戦いが始まる。

争いや戦いで正義を証明しても、心は満たされない。


美しくないからね。


感性を研磨しないと、『何が美しいか?』はわからない。

美しさを理解する心は、『慈しみたいという感情』とつながっている。

慈しみたいという感情なしには、美しさを感じとることはできない。

慈しみとは、結果を求めずにやさしくできるということ。


神舞のフリツケをなぞるだけでは、美しい動きはできない。

そこに、他者に対するやさしさとか世界に対するやさしさとか・・・・・・

『慈しみたいという感情』が透けて見えないと美しくはない。

もちろん、自分自身に対する慈しみの感情もね。


慈しみという感情が具現化したのが神舞の所作なのだ。

だからこそ、観る者の心が奪われてしまう。

じっと魅入ってしまう。

なんだかよくわからないけど、涙がこみあげてくる。


神舞は、不平不満や自慢に満ちた心では舞えない。

恨みや憎しみの念は美しくないからね。

自分が他人よりすごいということを証明しようとする動き。

そんな慈しみのカケラもない所作なんて美しくない。


舞台の上でだけ美しくなれるはずがない。

なんでもない日常が大切。

日々、やさしさをあげっぱなしにできているかどうか?

それが舞台上で明らかになるというだけのこと。


毎日の生活の中で、他人に期待をしないこと。

他人に変な期待をさせないということ。

頼まれごとを安請け合いしないこと。

ただ見守ることができているということ。


きちんと自分と他人の境界線を引くこと。

自分が笑顔でできること以上のことをしないこと。

他人の言動に振りまわされないこと。

そうしていれば、他人にやさしくし続けることができる。


他人の期待に応える必要はない。

他人に期待に応えてもらう必要もない。

そんな人は所作のすべてが美しい。

慈しむ=ただ見守ることができるから。


慈しみという感情が溢れていれば、所作のすべてが神舞となる。

ただ立っているだけ。

ただ歩いているだけ。

ただまわるだけ。

ただ手を上げるだけ。

そんな、ひとつひとつの動きが心を奪われるほどに美しい。


日々、期待しない・させないということを大切にしたい。

人は、自分の人生をきちんと生きていればいい。

お互いの期待に応えるために生きているのではないから。

そうしていれば、慈しみの感情が少しずつあふれてくると思う。