2018年5月24日木曜日

運動が得意でない=頭が悪い(脳の演算能力が低レベル)

誰からも理解してもらえなかった頃、養老孟司先生の本を読んでいました。

機能解剖に興味を持ったのも、養老先生の影響です。

いくつか、紹介します。

運動選手の動きも、筋肉の動きにダマされさえしなければ脳の働きである。これが脳の働きであることは、卒中の人を見ればすぐわかる。動きがすっかり不自由になってしまう。運動が得意でない人を捕まえて、お前は頭が悪いと言わないのはなぜか、私にはよくわからない。

脳は自己の身体性を嫌う。それは支配と統御の彼方にあるからである。

視覚はコマ送りの形で時間=運動を構成する。それが映画である。したがって、視覚の時間には、いわば量子が存在する。これをわれわれは瞬間と言う。/この「量子」を固定し、それに対して他の感覚を「流せば」、「永遠」という観念が生じる。

視覚はもともと論証には向いていない。だから視覚は直観的に「見てとる」のである。順次論証を「重ねる」のは、まさしく聴覚ー運動系の持つ性質に近い。

状況が変化したから視覚言語が生まれたのであって、ヒトが変わったから、視覚言語ができたのではない。いまでも、強制しなければ、視覚言語のない人がある。/生物学的な能力から言えば、視覚言語は聴覚言語と同時に用意されていた、と考える方を私はとる。

視覚は時間を疎外あるいは客観化し、聴覚は時間を前提あるいは内在化する、と言ってもよいであろう。 この関係は、すでに述べた構造と機能との関係に、じつによく似ている。

こういう(※皮膚、網膜など)二次元平面に同種の受容器が複数分布しているときに、各受容器の相互の位置がどうして知られるかというと、こうした受容器の相互の位置関係が、じつは脳の中まで、つまり神経細胞の配列として、ずっと維持されるからなのである。それが私の解釈である。

視覚とくに擬態について述べたように、感覚系が自身の判断を訂正するためには、異質の感覚にしばしば頼らざるをえない。少なくとも感覚器の末端は、間違うことはほとんどできない。見える以上は「見えて」いるし、聞こえる以上は「音がする」。

舌のはたらきで、いちばん奇妙な点には、多くの人が気がついていない。これは舌が、筋肉だけでできている以上、なぜ「伸びる」かという問題である。筋肉というのは「縮む」のが仕事で、自分で積極的に「伸びる」ことはできない。

機能がじつは意味に関連が深いということは、生理学が客観的科学と考えられるために、しばしばボカされる。しかし、形態学者から見れば、機能はすべて、じつは広義の「意味」の問題なのである。

最細筋も、ネコの解剖図譜では、尾側下腿外転筋といういかめしい名前がついている。しかし、幅二ミリ程度の筋を外転筋とは聞いてあきれる、というのは私のみの偏見であろうか。筋そのものを、こういう場合には、知覚器と考えたほうがましではないのか。

引用ここまで。

まあ、当時の私のまわりで理解できる人はいないはずです(笑)。

現在でも、そんなにいませんから。

アドラー先生の「人は、使いものにならない自分のライフスタイルにしがみつく」という言葉の通りです。

「人は、現実をねじ曲げてでも自分が正しいと思い込む」のです(笑)。

「運動が苦手な人は頭が悪い」

私がよく発するこの言葉の元ネタも養老先生だったりします。

脳の演算能力が低いので、動きが悪いのです。

パソコンやスマホと同じように考えればすぐにわかります。

動きをよくしたいなら、脳の演算能力を上げればよいのです。

加えて、各種センサーの性能も。

頭が悪いと姿勢が悪くなります。

頭が悪いと動けません。

頭をよくしましょう。