2016年10月14日金曜日

人は、自分の能力の分しか理解できない。他人を変えようとしてはいけない。変わらない他人は、置き去りすればいい。

今日の、13:30から薬院校でグループレッスンやります。

告知忘れてました。

---------------------------------------------------------

舞さんが、ブログにこんなことを書いていた。


1年前に、安部先生との対談をさせてもらったのですが、昨日、1年ぶりに聞き直していました。


この前、安部先生が、

あの動画消そうかな〜。


と言われていたんですが、


とんでもない!

この対談、私にとっては宝のような内容でした。

私が知りたかったことの答えが全部入っている!

昨日聞き直してわかりました。(笑)


今思うことは、1年前は、私何もわかってなかった!ってこと。


人は、自分の能力の分しか理解できないのだとわかりました。



対談の内容で、ほんとに理解できてたことなんてほんの少しで、

昨日聞いて思ったことは、


内容暗記したい!


私は、これを何度も聞いて、完全に理解してすればいいんだ、と。

なんと、いま、疑問に思っていることの答えもたくさんお話されてたのです。


引用ココマデ


いや、消したいんだけどね(笑)。


昔から、散々味わってきたことなんだけど、

僕の話を理解してもらえるのは数年後、いや、数十年後だったりする。

人間の基本特性として、自分の脳機能以上のことを理解することはできない。

僕の意見と他者の意見の違いを理解するためには、僕と同じ能力が必要なのだ。


わかりやすい例として、まったく痛みのない壁開脚を例にあげよう。

壁開脚

これと、普通の壁開脚の違いは、できる人にしかわからない。

そういうことだ。

僕がよく、「こっちの世界に来ないと理解できないよ」っていうアレ。

舞さんの言う通り、自分の能力の範囲内でしか理解できないのだ。


僕の講座では、片側だけ改善して、反対側の感じと比較する訓練をする。

能力が低い人は、変化を感じとることができない。

能力が高い人は、変化を感じとることができる。

そして、その感じる能力の違いが、変化のスピードに反映される。


同様のことは、そもそも何を習うかという時点で運命の分かれ道となる。

断言できるが、能力が低いと、おかしなことを習おうとする。

自分の能力がおかしいので、同質のおかしなことを『良い』と判断してしまう。

「頭おかしいよ」って言ってくれる親切な能力者の意見が耳に届かない。


これも断言できるが、何を習うかは、能力をあげてから判断した方がいい。

まずは、能力をあげてもらう方が先なのだ。


もっとも、無駄に挫折を重ねて学んでいく人生も悪くはない。

そっちを選ぶのも、それはそれで意味があるのかもしれない。


僕は嫌だけど(笑)。


そして、認知的不協和について知っておく必要がある。

認知的不協和wikiより

認知的不協和は、購買プロセスにおける購買後の評価段階で、「自分が良いと思って購入した商品よりも優れた商品があるかもしれない」という心理的なストレスを抱えてしまった場合などに生じることがある。
 
認知的不協和が生じてしまった場合、不協和を逓減させるために、自分の決断の正当性を確立する情報を集めようとする。

防衛機制の合理化には、甘いレモンの理論という、本当は理想的ではない自分の持っているものを、良いものであると思うことで不協和逓減をする方法もある。

 例えば、平均的な価格帯の腕時計の良いところや時計の機能として十分に優れているところを確認することで、高級時計への憧れを逓減させる、などが挙げられる。

 甘いレモンである平均的な価格帯の腕時計をすでに持っているのだから、すっぱい葡萄かもしれない高級時計など必要ないという防衛機制の合理化を行うのである。

人は、自らの判断が正しいと思えるように、何らかの正当な理由を探して、認知的不協和を逓減しているのである。

引用ココマデ


そう。

賢明な方なら、もうおわかりだろう。


人は、自分が選んだ先生や方法論が実は理想的ではないとわかっていながら、いや、わかっているからこそ、自分の判断が正当であると証明しようとするのである。

この理由で、自分の正当性を主張している時点で詰んでいる。

自分が理想的な先生について理想的なことを学んでいるとしたら、やることはひとつ。

すばらしいスピードで良い方に変化している自分の姿をさらすだけでいい。

何らかの正当な理由を探して自分の正当性を主張する必要はない。


僕はよく塾生に、こんなことを言う。


「他人を変えようとしてはいけない。

 変わらない他人は、置き去りにすればいい」


これ、ストレスフリーだ。


少し考えてみればわかる。

他人を変えようとする時間と労力を、自分の成長のために使う。

それが、置き去りにするということ。

置き去りにされることで、賢い人なら自分を疑い出す。

自分の正当性を証明しようとする人は、どんどん堕ちていく。

自分で考えて、自分で行動した結果を、自分の責任で受け止めるということだ。


間違うことは恥ずかしいことではない。

恥ずかしいのは、間違っていることに気づかないこと。

もっと恥ずかしいのは、間違っていることを指摘されても気づかないこと。

さらに恥ずかしいのは、間違っていないことを証明しようとすること。


これをやらかすと、忠言してくれる人がいなくなってしまう。

詰む。


人は、間違う生き物である。

どんなに能力が高くなっても、日々間違う。

間違いを即修正するかしないかの違いだけ。

そうすれば、能力が着々と向上していく。


変わらない他人を変えようとする必要はない。

すべてその人自身が引き受ける問題だからだ。

そんな暇があったら、自分の間違いを修正することに集中した方がいい。

他人を変えようとしても何もひとついいことはない。

自分が成長するのは楽しい。


泡沫(うたかた=水に浮かぶ泡)のように、儚く消え行く人。

間違いを修正しないということは、泡沫のような人生を生きるということ。

泡沫のような生き方をしていると、泡沫の出会いしかない人生となる。

僕はそんな生き方は嫌なので、日々、間違いを修正して過ごしている。


人生は選択の連続である。

自分がどう選択するかは自由。

そして、その選択の結果がどうなるのかは自分の責任。

しっかりと選択能力をあげておきたいと思う。