2016年4月30日土曜日

他者の期待を満たすために 生きてはいけない~「これは誰の課題なのか?」

アドラー先生
他者の期待を満たすために生きてはいけない より

哲人 わかりました。それでは、アドラー心理学の基本的なスタンスからお話ししておきます。たとえば目の前に「勉強する」という課題があったとき、アドラー心理学では「これは誰の課題なのか?」という観点から考えを進めていきます。

青年 誰の課題なのか?

哲人 子どもが勉強するのかしないのか。あるいは、友達と遊びに行くのか行かないのか。本来これは「子どもの課題」であって、親の課題ではありません。

青年 子どもがやるべきこと、ということですか?

哲人 端的にいえば、そうです。子どもの代わりに親が勉強しても意味がありませんよね?

青年 まあ、それはそうです。

哲人 勉強することは子どもの課題です。そこに対して親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者の課題に対して、いわば土足で踏み込むような行為です。これでは衝突を避けることはできないでしょう。われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。

青年 分離して、どうするのです?

哲人 他者の課題には踏み込まない。それだけです。

青年 ……それだけ、ですか?

哲人 およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと――あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること――によって引き起こされます。課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう。

 たとえばアドラー心理学のカウンセリングでは、相談者が変わるか変わらないかは、カウンセラーの課題ではないと考えます。カウンセリングを受けた結果、相談者がどのような決断を下すのか。これまでの自分を変えて、新しい一歩を踏み出すのか。それとも、このまま踏みとどまるのか。これは相談者本人の課題であり、カウンセラーはそこに介入できないのです。

 もちろんカウンセラーも、精いっぱいの援助はします。ある国に「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」ということわざがあるそうですが、まさにアドラー心理学のカウンセリング、そして他者への援助全般もそういうスタンスだと考えてください。

引用ココマデ




昨日から、薬院校でGW集中講座が始まりました。

機能解剖学を楽しそうに学んでいる参加者たちを見ていると楽しくなります。

機能解剖学は、「これは誰の課題なのか?」を考える機会となります。

自分の身体が壊れているのは、自分で適切な判断ができないからです。

他人の人生を生きているからということです。

自分の現在の状況の全責任は自分自身の判断にあります。

それを認めない人間に、本当の意味での身体機能改善はできません。

身体機能の改善とは、脳機能の改善だからです。


健全な人間関係を築けるということが、身体機能の改善です。

つまり、人間関係が不健全な身体操作指導者なんて存在しないということです。

課題の分離ができない人は、人間関係が不健全になります。

お互いに操作しあっている関係は不健全ですよね。


僕はよく、「他人を支配しようとする指導者につくと身体を壊しますよ」と言います。

身体操作指導者は、助かり方=機能解剖学(生体力)の解説をするだけでいいのです。

その深遠な知識を学ぶかどうか、学んでどうするかは本人の問題です。

お互いに、相手の期待に応える必要なんてないのです。


余計なことをしないのが、身体操作の極意なわけですしね。

余計なことをすると、バランスが崩壊してしまいますから。


今日の講座は足・脚について熱く語ります。

自分の課題と向き合ってくださいね(^^♪