2016年4月11日月曜日

行くときは何も分からずに空っぽの心で行って、帰るときには充実して、十分に満足している~人の昇沈は必ずその道の学び方にある!

昨日の青隆寺での修了式のとき、僧侶の方が「虚往実帰」のお話をしてくれました。


虚往実帰

師などから無形の感化や徳化を受けるたとえ。
行くときは何も分からずに空っぽの心で行って、帰るときには充実して、十分に満足している意から。

「虚往実帰」(きょおうじっき)

師匠や先生などから偉大な教えを受けること。
「虚往」は頭の中を空にして出掛けること。
「実帰」は十分に満たして帰るということ。
知識が全くない状態で出掛けて、出掛けた先でたくさんの教えを受け、十分に満たされて帰るという意味から。
「虚にして往き実にして帰る」とも読む。

虚往実帰 きょおうじっき

学徳のない弟子が、師から多くの教えを授けられること。
先生や師匠などから、無形の感化や徳化を十分に受けるたとえ。
「虚にして往(ゆ)き、実(じつ)にして帰る」と訓読する。
「虚往」は、空っぽの頭で師のもとへ出かけること、
「実帰」は、充実して帰る、また、十分に満足して帰るという意。

引用ココマデ

恵果阿闍梨 空海阿闍梨(弘法大師)

延暦23年(804)空海(弘法大師)が入唐し、青龍寺の門を叩いて密教の教えのすべてを恵果から受け継ぎました。

(そう。「青龍寺」なのです)

恵果は初めて会った空海 (弘法大師) を見て、こう語りかけました。

 「我汝の来るを知り、待つこと久し。 今日相見えて大いに好し」

恵果和尚は、空海に教えのすべてを伝え終わった後、その年の12月に亡くなりました。

空海は、その幸運と不可思議さの両方を感じとりました。

「弟子空海、桑梓(そうし)を顧みれば東海の東、行李(こうり)を想えば難の中の難なり。波涛万万たり。雲山幾千ぞ。来ること我が力にあらず。我を招くに鈎をもってし。我を引くに索をもってす

「何か不思議な力で引っ張られて、招かれてきたような気がする」

恵果に出会って自分に密教が伝えられた喜びと、恵果に出会えた不可思議さ。

何を得られるか分からない不安な気持ち。

魔訶不可思議な出会いから、自分が求めていた以上のものが得られた喜びと心の充実。

「虚往実帰」という言葉の中には、そんな気持ちが感じられます。


金剛界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅

僕が好きな弘法大師空海の言葉。

人の昇沈は定めて道に在り(人の昇沈は必ずその道の学び方にある)。

人が出世するか没落するかは、道理に基づいた生き方をするかどうかで決まる。


嫉妬の心は彼岸より生ず。平等を得ればすなわち嫉妬を離る。

嫉妬の心は、私とあなたは別々の人間だからというところから生じるものである。
その比較から嫉妬心が生まれて苦しいのです、と説いています。


上手く生きれている人は、他人に嫉妬なんてしません。

しあわせだなあって感じている人は、みんなしあわせになって欲しいと考えます。

自分のことを憎んでいるから、他人のことも憎んでしまうのです。

自分のことを愛せない人が、他人を愛することなんてできません。


満たされないから他人を憎み、嫉妬する。

でも、その歪んだ気持ちは、結局はすべて自分に跳ね返ってきます。


行くときは何も分からずに空っぽの心で行って、
帰るときには充実して、十分に満足している。


そんな場所を、僕はつくりたかったのです。

そのことに、青隆寺で気がつきました。


僕が教えれるのは機能解剖学(生体力学)。

虚しくやってきた人たちが、満たされた気持ちで帰れる講義。

それが僕のやりたいことです。

今後は、腹を括ってやっていきます。