2015年2月4日水曜日

人間は、幸せを感じている時に誰かを批判したいとは思わない・・・・・・ですよねw

みぞおちの図


いばや通信』を読んでいます。


以前の僕は、批判精神の塊みたいな卑屈な存在でした。

あの頃の僕は超絶ふしあわせで、当時の写真を見ると隠蔽したくなります。

しあわせな時間が増えてきて、批判したいという気持ちが減りました。

FBのタイムラインで、正義感燃やして批判ばかりしている人を見ると、以前の惨めな自分が思い出されて複雑な気持ちになります。

そんなとき、いばや通信に出会い、救われた気持ちになれました。


安部塾薬院校開校の覚悟を決めることができたのは、このブログのお陰です。

僕の心を救った言葉を、いくつか紹介したいと思います。


【目標達成型より瞬間燃焼型】最近聞かれる10の質問。ー 「幸せになるために生きている」という意識が日本は希薄だ。 より

「やりたいからやっている」だけなので、特別な使命感や世直しの精神はありません。正義感も皆無で、正義感は時に「価値観の押し付け(暴力)」にもなると思っているので苦手です。「自分が好きなことをひたすらやっていたら、いつの間にか社会的な問題も軽減していた」という結果になれば素敵だなあと思っています。

人間は、幸せを感じている時に誰かを批判したいとは思わない生き物だと思います。美味しいご飯を食べている時や、仲間と会話が盛り上がっている時や、美しい景色を眺めている時に、いちいちスマホを取り出して見知らぬ他人に「死ね」だの「消えろ」などとは絶対に言いません。何かをすると批判をする人が後を絶たないのは、今、幸せを感じることが出来ていない人が大量にいるということの裏返しであると思います。

「自分をオープンなものにしている限り、絶対に人間は死なない」ということを肌感覚で実感しました。逆に言えば、不安や恐怖心などのストレスは人間の精神を硬く内側に閉ざしてしまいます。精神を閉ざしてしまうと自分ひとりであらゆることを抱え込んでしまう結果になるために、ネガティブな現象が発生しやすくなります。


【よろしくやってんじゃねえよ理論】批判の9割は嫉妬。ー 本当の意味で自由に生きている人は、それを見ている人の心まで自由にする。

私はひとつの真実を知ることになった。世の中には「勝手に想像して、勝手に嫉妬して、勝手に批判してくる人」が必ず一定数の割合でいるということだ。彼らにとって、事実がどのようであるかは重要ではない。自分の頭の中で甘いロマンスの世界を妄想して、勝手に嫉妬し、批判の声を浴びせてくる場合が大半であることを私は知った。「よろしくやってんじゃねえよ」という罵声の声は、裏を返せば「私はよろしくやりたくてたまらないのです」という(その人自身の)願望や欲望の現れなのだと思うようになった。

批判の9割は嫉妬である。

それからというもの、私はこうした現象(?)を「よろしくやってんじゃねえよ理論」と名付けた。誰かに何かを言われた時、実は、その人自身も「そうしたくてたまらない」場合が多いのだと思う。「よろしくやってんじゃねえよ」という人は、その人自身が「よろしくやりたくてたまらない」のだ。事実はまるで異なるのに、勝手に想像して、勝手に嫉妬して、勝手に批判する人たちはどうしたって出現する。他人の目線が気になって行動を起こせなくなる局面は頻繁にあるが、誰かに批判されたとしても「批判する人も、実はそうしたくてたまらないから批判するのだ」ということに思いを馳せれば、恐れることは皆無だ。

最近の私のテーマは「圧倒的肯定力」であり、他人をディスる暇があったら、自分が選んだ道で自分が幸福になることに全力でエネルギーを注いだ方が明らかに有意義であると思っている。誰かに何かを理解してもらうことにエネルギーを注ぐより、自分がやりたいことに全力でエネルギーを注いだ方が、結果として周囲の理解も後から勝手についてくるものだと思っている。

そして、人生とは自分を楽しませることであるという思いに揺らぎはない。他人の幸福を妬んだ所で、他人の生き方を否定してみたところで、自分が幸せになれる訳ではない。「他人を否定することで自分を肯定したくなる」気持ちもわからなくはないが、それでは卑屈で低俗な人間に成り下がってしまう。

極論、周囲から批判される人は「良い感じ」なのだ。事実はどうであれ、周囲の人はあなたに嫉妬しているからこそ、あなたを批判するのだ。誰もが自分が心からそうしたいと思うような人生を生きたいと思っていて、しかし、何らかの理由や制約があってそれを実行することができない。だからこそ、自由に生きている(風に見える)人を見ては(自由に生きれない自分を肯定するために)「あなたは間違っている」みたいなことを言いたくなってしまうのだろう。

しかし、批判された時に取るべき態度は「萎縮すること」よりも「突破する」ことであり、ほんとうの意味で自由に生きている人は、それを見る人の心まで自由にする力がある。目指すべき境地はそのレベルであり、周囲の人間に有無を言わせぬ肯定感を与える力を自分の中にも養うためにも(ほんとうの意味で自由になるためにも)、この世に蔓延る「よろしくやってんじゃねえよ理論」を理解した上で軽やかに突破し、これからも自分の人生をよろしくやっていきたいと思いました。


【圧倒的肯定論】「自分が選んだ道で幸せそうに生きている姿を見せること」以上に説得力を持つものはない。ー 現実的な厳しさだけではない、理想の素晴らしさを語れる人間を目指そう。

私は自分一人でなんでもやらなきゃいけない世の中よりも、もっとお互いに助け合える世の中のほうがずっといいなって思う。

「こうあるべき」という枠に自分をあてはめて生きるのではなく、「こうしていきたい」と思える希望の枠を自分たちで作っていくことの方が、よっぽど重要な仕事だと私は感じた。この世の中に完璧な人間はひとりもいない。だからこそお互いに助け合うことができる。「自分のことは自分で出来て一人前(誰かに頼るのは半人前)」という価値観では、お互いに助け合うことが出来ない。そして、何よりも重要なポイントは「お互いに助け合う」ということの中には、大げさだけれど「人の優しさに触れるよろこび」がある。自分のことはすべて自分でやるように仕向けられると、人の優しさに触れるよろこびの機会が奪われてしまう。しかし、人間は「(自分のためではなく)誰かのために何かが出来た」という実感を通じて絶対的な自信を獲得する生き物であると私は思う。言い換えれば、自分のことだけ考えていても簡単に虚しくなるように出来ている生き物だと思っている。

「自分が選んだ道を幸せそうに生きている姿を見せること」以上に説得力を持つものはない。周囲の理解をすぐに獲得することは難しいかもしれない。しかし、自分が自分の選んだ道を最高なものにしていこうとする姿を見せ続けていれば、必ず後から周囲の理解も勝手についてくる。誰かに何かを理解してもらうためにエネルギーを注ぐよりも、自分がやりたいことに全力でエネルギーを注いだ方が、自分が選んだ道で自分が幸せになろうとすることにエネルギーを注いだ方が、結果として周囲の人々の気持ちもほぐし、ゆっくりと(それでいて確実に)周囲の理解や共感を獲得していくものだと私は思う。

どれだけ正しい生き方をしていたとしても、その人があまり幸せそうに見えなかったら「お前みたいにはなりたくない」と思われて、誰も耳を貸したくなくなってしまう。逆に言えば、その人が自分の人生を思い切り楽しそうに生きていれば、周囲も自然とその人の意見を聞きたくなったり、自分の人生に取り入れていきたいと(強制的にではなく自発的な思いを原動力にして)思うようになっていく。

極論、自分が選んだ道を幸せそうに生きている姿を見せること以上に説得力を持つものはない。人生とは、自分を楽しませることである。そして、楽しそうに生きていれば、仲間や理解者は勝手に増えていくものだ。自分が選んだ道で幸せになることを肯定しよう。他人に何かを強制するのではなく、自分が幸せに生きることを通じて、そのエネルギーを周囲に伝染させていこう。そして、社会の現実的な厳しさだけではない、理想の素晴らしさを語れる人間になることを目指そう。人生は続く。

引用ココマデ


しあわせに生きていない人は、誰かの不安や恐れを煽ることしかできません。

ふしあわせそうに生きていると、「お前みたいになりたくない」で終わりです。

誰かの不安や恐れを煽って思い通りに動かそうとする人生の先に何があるか?

さらなるふしあわせな世界です。


ふしあわせになればなるほど、批判精神が旺盛になります。

批判精神が旺盛になればなるほど、ふしあわせになります。

どこかで断ち切らないと、人生詰んでしまいます。

ふしあわせなまま死んでいくなんて、哀しすぎます。


「安部塾って、どんなとこなの?」

そう聞かれたときに、こう答えてもらいたい。

「楽しいとこだよ♪」

僕と塾生たちが、しあわせそうに楽しくやれていれば、きっとそうなります。


塾生たちが自分で選んだ道でしあわせになれる。

僕たちは、それを現実化させることを目指します!