2013年6月13日木曜日

瞑想で「不安」が取り除かれ、慈悲深い「いい人」になれるらしい。

瞑想は「不安」を最大39%取り除く 医学的にも判明より

瞑想(メディテーション)することにより、心の平静が保たれ不安と上手に付き合うことができる、というのは知られていますが、その「なぜ?」について学者が科学的な解明に挑みました。

ウエイクフォーレスト・メディカルセンターの研究によると、脳の思考と感情をつかさどる部分の活動を抑制し、不安をコントロールする脳部位の活動が活発になることが分かったのです。

今回の研究では、被験者の脳をスキャンしてその活動を追いました。一度もメディテーションの経験がない15名の被験者には、まず普通の脳の活動とその人の不安度を測りました。その後、1回20分のメディテーションを4回行ってもらい、再度脳のスキャンと不安度の測定を行いました。

その結果、不安度が最大39%まで低下し、脳の2つの部位の相互関係があることが判明したのです。

メディテーションをすると、意識は今に集中します。そして日常の考え事とそれから発生するさまざまな感情とのうまい付き合い方を学べます。これは、医学的に説明できる効能のようです。

瞑想(メディテーション)で慈悲深く、いい人になれる!より

瞑想をすると精神的、身体的バランスを保つことができます。最近の研究で、メディテーションにはさらに、人を「いい人」に変える効果があることが証明されました。

ノースイースタン大学とハーバート大学の研究によると、メディテーションすることで慈悲深くなり、行いまで改善されるとのこと。この研究では、8週間に及ぶメディテーショントレーニングを終了した参加者の思いやりの行動を観察しました。

彼らがある待合室に座っている間に、松葉づえをついた人を(本当は役者)助けるかどうかのテストを行ったところ、トレーニングに参加しなかった人ではわずか15%が助けを申し出た一方で、トレーニングを行った人では50%が松葉づえの人を助けるという結果がでました。

「この結果の本当に驚く事実は、社会的規範にかかわらず、メディテーションが人を高潔に変えることです」とノースイースタン大学の心理学者は語っている。

「待合室のほかの役者たちは松葉づえの人を無視していました。つまり、普通なら助けようとする気をうせさせる『傍観者効果』があったのです。人はよく『ほかも助けてないのに何で私が助ける必要があるの?』と思うものです」

最近の人間神経科学の研究では、メディテーションが脳の感情処理に影響を与えることも証明されており、特に感情的刺激による扁桃(へんとう)体の反応がメディテーションにより変化するとのこと。


瞑想

☆インド発祥の瞑想

インドでは極めて古くから瞑想が行われていたようであり、紀元前25世紀ごろに栄えたインダス文明の遺跡であるモヘンジョダロからは、座法を組み瞑想を行う人物の印章が発見されている。

紀元2~3世紀ごろにパタンジャリが、サーンキヤ学派の理論にもとづいて瞑想の技法を体系づけ、その技法を継承する集団が形成されるようになった(「ヨーガ・スートラ」『魂の科学』『解説ヨーガ・スートラ』参照)。その瞑想は「ヨーガ」と呼ばれ、継承者集団はヨーガ学派と呼ばれている。意識をただ一点に集中させ続けることによって、瞑想の対象と一体となり、究極の智慧そのものとなるのである。この状態は三昧(さんまい、ざんまい、サマタ、サマディー)と呼ばれる
仏教の始祖とされているブッダ("悟った人"の意)は、究極の智慧を得たのであるが、それは上述のインドの瞑想の技法(あるいはヨーガ)によって得たものであり、彼はその瞑想法をより安全かつ体系的なものに発展させた(『原始仏典』参照)。それゆえ仏教の諸派の中には、今でもヨーガの瞑想の技法を継承している派もあり、さらに独自に発展させている派もある。(詳細は瑜伽、法相宗、真言宗、天台宗、天台止観、禅、上座部仏教などの項を参照)
大乗仏教諸派や他の宗教では、三昧による一体感を究極の目的としている場合が多いのに対して、上座部仏教では、三昧の完成を修行の最終目的とせず、三昧に没入できるほどの極めて高い集中力で、今をあるがままに見ることで智慧の完成(悟りの境地)を目指す。仏教心理学では、三昧によって得られる境地を、その内的体験によって第一から第九禅定までに体系化している一方で、ヴィパッサナー瞑想によって得られる境地(悟り)は、これらの禅定とは別の体験としており、これが仏教と瞑想を基本とする他の宗教との違いとなっている。

引用ココマデ


僕のクラスでは瞑想をしない。

屍(死体)のポーズ=シャバーサナすらやらない。

肉体と感情は分かつことのできないもの。

威儀と作法=立ち居振る舞いにこだわればいいと考えている。


威儀と作法。

コレが当たり前にできるようになると、自分の身体が自在に扱える。

エゴ=我執に振りまわされると、身体の動きに迷いが生まれる。

真実は説明不可能なので沈黙するしかないんだからさ。


サマディ(三昧)よりボーディ(菩提)を重視。

菩提は英語のbodyと語源が同じ。

煩悩と菩提は分けようとしても分けられず、相即して存在。

煩悩まみれな自分を見つめるのが瞑想。


で、自分と他人を比較することをやめちゃおうって決めること。

欲張るのもやめてしまうこと。

そうして生きていれば、よく眠れる。

よく眠れていれば、クリアな頭で考えることができる。


そう。

瞑想に何らかの効能を求めてしまう時点で、いまを見つめれなくなる。


『ただ瞑想する』って難しいんだよね。